シンポジウムで考えたかったこと、考えたこと、考えのこしたこと(熊谷保宏)

2021年にサイトの引越しをしている際に見つかった資料です。2000年1月に行われたシンポジウムに関する熊谷先生のレビューです。掲載に問題あればご連絡ください。(花家)

■ていねいに考えたい
 高等教育というと高校の話とおもう人がいるようだけど、いまの日本の高等学校は中等教育機関で、その後の、中等後の、中等教育より“高い”教育が高等教 育ということになる。英語でいうところの higher education、機関としては大学・短大や、いわゆる専門学校なども入りうる概念で、ほんとうは中等後教育 (post-secondary education) というほうが適切かもしれないが、今回は高等教育ということにした。
 こういうタイトルで何をしたかったかというと、演劇についての高度な、あるいは専門的な教育ないし学習ということを「研究」してゆくための、いわば基礎 作業。研究するにあたっては、何ほどか情報を共有しておく必要がある。さしあたり、学びの社会的な仕掛けである学校という制度機関を手掛かりにしようと今 回のシンポジウムを企画した。
 司会者であったわたしの問題意識としては、主として大学で演劇について教え、一方で、演劇を教えることをもっぱらとする大学組織の運営にたずさわりなが ら、かねがね「この事どもについて、もうちょいていねいに考えておかねばならん」とおもっていたことがあげられる。わたしの所属組織がとくにそうなのかも しれないが、けっこういそがしく、いろいろ「やる」ことがたくさんあって、あまり「考える」余裕がない。もちろんまったく考えないわけではなく、目の前の 問題群への対応について考えなければならいことはどっさりあって、しじゅう考えさせられている。けれど、そうした事どもの基礎というか、考えてゆく出発点 というか、あるいは考えてゆく“ゆきかた”みたいなことを、ていねいに考える余裕はあまりない。
 この日本演劇学会「演劇と教育」研究会においても、これまでは、大学レベルの演劇教育がテーマになることはほとんどなかった。わたしたちのみならず、い わゆる「演劇教育」の領域では、伝統的に小・中学校の話が中心であって、大学などは対象にならない。「それは別の問題」という感じで、特別あつかいなの か、それとも問題外なのか、すくなくとも継続的な「研究」の対象にはなっていなかった。しかし、考えるべきことはたくさんある。

■議論の背景
 世間では近年、専門的な演劇教育について語られることが、ふえているような気がする。また――これについては高校もふくめ――専門的な演劇教育の提供が、ふえている。
 いろんなことがいろんなふうにおこなわれ、いろんなふうに語られているが、中身は、似た印象をうける。おこなうおこないかた、語る語りかた(ディスコー ス)はいろいろであっても、それらをささえる考え(パラダイム)は、けっきょくおなじじゃないか。(佐伯隆幸氏などは異質。)
 たとえば、どこでも「養成」が問題になる。それも既存の業界的枠組みでの役割(たとえば新劇、たとえば俳優)が話の前提になっているが、何でそれ(だ け)が前提になってしまうのだろう。(話は飛躍するが、こんにちの大学改革の背後には財界ないし業界からの圧力がある。演劇界にそのようなパワーはないけ れど、教育についてのナショナルなパラダイムは演劇の学びにおいても再生産されているということかもしれない。)
 たしかに高等教育機関は何ほどか専門的な人材の養成を想定しており、学生のほうも専門家になるためのステップとして大学なりに入学してくることがおお い。このような状況は演劇の学びについてもあてはまり、それにこたえるかたちで大学の演劇科、演劇の専門学校、あるいは劇団の養成所が存在する(『芸能マ スコミ養成全ガイド』という本には400を超える機関が紹介されている)が、各セクターあるいは各学校ごと、そうとう条件はちがうはず。たとえば俳優養成 をとっても、どれだけバリエーションがあることか。
 何にせよ、そうとう基礎的なことから、すなわち根本的なところから、ていねいに議論を積みあげていかないと、状況にからめとられる。(この点とくに大学 があぶなっかしい。)この研究会がそれにこたえられるかはわからないが、議論の場として、ひとつのインフラになれればとおもう。いいかえると、演劇教育と いう枠組は、高等教育についての議論にも対応できるようであるべきだということ。
 今回のシンポジウムは、ほとんどノリでやることになったようなところもあるが、研究会として、いちおうの経緯がある。それはたとえば、高山図南雄氏が中 心になって昨年(1999年)すこし集中的にとりあげたドラマセラピー論。ドラマセラピーといのは、どう考えても高度かつ専門的な領域だ。これが10月。 11月には短大におけるパフォーマンス教育、12月には大学専科における俳優教育の問題をとりあげた。
 今回のシンポジウムはこれらの延長線上でおこなわれた。そして、個人的には、今回の延長線上で日本演劇学会の春季大会(2000年度のテーマは「演劇教育の現状と展望」)を考えられたらとおもっている。

■考えたこと
 シンポジウムとはいいながらも参加者20名ていどの規模だったから「しゃべる側-聞く側」ということなくディスカッションできたことはよかったとおも う。報告および応答についての詳細は(報告者によるペーパー、参加者によるレポートなど)他にゆずるとして、考えたことを断片的ながらしるしておく。お わってから考えたものもある。
 ひとつ。「何を」から「どう」教えるかまでの、すなわち根本的な教育論から具体的な指導法にわたる議論の欠落――というより、これが「ない」「わからない」と認知されている“欠落感”が、議論してゆく際のおおきな問題になっているのではないかということ。
 ふたつめとして、教育システムの非互換性。あっちでならったことはこっちで通用しない、大学の演劇科で4年間勉強してもあらためて劇団養成所に入門しな おさなければならない、といった状況については、シンポジウムでも議論された。あるいは、ある教えかたは、よそで通用しない。この互換性のなさは、単にデ ファクト・スタンダードがないからという話じゃないようにおもう。機関・教師がおこなう教育内容が本質的に非互換であるというより、教える人の系統性や機 関と機関の関係性において互換が損なわれている面がおおきいのではないか。一方で、現場と教育機関のあいだに協調的なパートナーシップが成立しているとは いえない。これについても、互換性がないと「考えられている」ビリーフをこそ問題にすべきかもしれない。
 それと、教えている人は、なぜ教えているのか。どういう人生設計(あるいは因果)において、教える人になろうとおもい、どういうルートで、なったか。あるいは、ならざるをえなかったか。演劇教師のキャリア形成の問題が、みっつめ。
 また、こういう席ではどうしても学んでいる側の顔が見づらく、声が聞こえにくい。学習者の側からの考えかた、演劇学習者論というのも準備していかなければならないだろう。そうおもって、案内文などでは「学び」とうたったのに、手がまわらなかった。
 と、ほとんど箇条書きになってしまったが、いずれも考えてみたい問題で、またどれも話題としてひろがりがあるのではないかとおもうので、メモとしてしるしておいた。

■多様化する演劇の学び
 今回は演劇人とくに俳優の教育を中心に報告および議論がなされたが、これはもちろん、高等教育における演劇についての議論の、あくまで一部であることを確認しておきたい。
 話を養成にかぎっても、スタッフや批評家、あるいは研究者の養成ということもあるだろう。アートマネージメント専門家ないしアドミニストレーターの養成 については研究会でもよく話題になった。また、久次さんから報告があったように、演劇的方法をつかった秘書実務教育というようなことも、おこなわれてい る。演劇教師の養成というのも、昔からあった議論だが、昨今は高校に演劇の専門課程がふえたり、小・中学校でも総合学習の時間に演劇をという声があって、 教師教育・養成の問題は今後ますます大事になってくるとおもう。高山氏の主張するようなドラマセラピストの養成問題だってある。
 いまや演劇を専門背景とする職能集団は、いわゆる演劇人だけではないということだ。演劇人にしたってアカデミックな専門背景は演劇じゃない場合のほうが おおい。逆に、大学の演劇科を出てメジャーな演劇人になるのは、めずらしいケースとさえいえる。(これは関東の場合。菊川さんによると「関西はちがう」そ うです。)
 確認したかったのは、演劇についての高度ないし専門的な(あるいは応用的な)学びには多様な方向性があるということ。とすれば、いわゆる俳優養成の問題 は、話のごく一部だ。菊川さんの、特定な方向への養成を想定しない、大学のいわゆる一般教育における演劇科目についても組織的に調査したうえで議論する必 要があるという提起も、そうだよなあと再認識した。

■課題としての研究
 高等教育についてトロウ・モデルという有名な理論がある。その歴史的発展は、エリート対象からマス(大衆)へ、マスからユニバーサル・アクセスへと推移 するというもの。ユニバーサル・アクセスというのは、高等教育が万人(年齢問わず)の義務と認識されるような段階のことで、日本もこの方向に進みつつある と考えてよいだろう。万人というのは、ようするに多様な個人ということだ。
 演劇についての高等教育も、多様な学習ニーズへの対応がもとめられるようになる。そのとき、いまの高等教育機関ないし大学のおおくが採用しているような 特定のエイジ・グループ対象の“養成”教育は、どうなるのだろう。あるいは、多様な文化的背景をもつ人びとの多様な学習ニーズ(それは実践指向をつよめる ものと予測される)に、演劇学はどう対応できるのだろう。
 教育の問題についても、教育開発ということをふくめ、研究されてゆかねばならない。ただし「ひらかれたかたちで」という条件がつく。現場というのは、どうしても閉じがちだからである。
 いままでも、個人または機関単位で「研究」はおこなわれてきたのだとおもう。が、結果的に、日本における演劇の高等教育は機関・個人単位の――無知とは いわないまでも――経験知だけにたよった、はなはだ現業的な世界である。とくに実践教育をおこなう機関にこの傾向がはなはだしく、今回のシンポジウムで も、その特異な現業性がうかがわれた。そこには独特の楽しさもあるが、大変さもある。問題は後者だ。なにしろ「考える」余裕をうばう。
 今後のためにも、考えてゆくこと、別のことばでいうと「研究」が必要なのだとおもう。状況が変わってゆくことはまちがいない。学校などの機関は、根本的 な発想の転換なり、試行錯誤をせまられるだろうが、これは演劇の学びの充実にとって、むしろよきことだとおもう。けれど、おもわない人も、きっといる。い ろんな人と、ていねいに考えてゆきたいとおもっているしだいです。

(くまがい・やすひろ 日本大学芸術学部)