高尾隆:演劇教育の実践を研究すること

この研究資料にはレビュー記事があります。

ただ今ご紹介にあずかりました高尾と申します。今日はよろしくお願いします。ふだん私がやっている実践の一端に触れてもらうという意味と、個人的にどういう方がいらっしゃっているのかということを知りたいなと思いまして協力をしていただきたいんですけれども、一つゲームというかアクティビティをやらせていただきたく思います。ご存知の方もたくさんいらっしゃると思うのですが、他己紹介というのをやりたいと思います。お隣り同士で二人組をつくってもらうことはできますでしょうか。その二人組で、まず一番最初に、1分間時間を差し上げますので、1分間で一方の方が一方の人に自己紹介をしてください。私と高山さんとやる場合でしたら、最初の1分間、私が先行だとしたら高山さんに私が自己紹介をします。高山さんの方でもっと聞きたいことがあったら質問してもらってもかまわないんですけども、自己紹介をします。1分経ったら交代といいますので、交代になったら今度は高山さんが私に自己紹介をして、私が質問をしたりします。合計2分間お互いの自己紹介をしてください。その後もう一回輪に戻りまして、他己紹介をしたいと思います。つまり私が「こちらが高山さんです‥‥」というふうにして高山さんの紹介をします。高山さんは私の紹介をするという形でぐるっと全員の他己紹介をやっていくという形にしていきたいと思います。ルールは大丈夫でしょうか。[参加者より質問「メモはとってもいいのでしょうか?」]

特にそういうルールは考えていませんでした。どうでしょうか。個人的には適度に情報が失われていくのもステキなことかなと思いますので。完全でなくてもたまに間違いがあってもそれはまたご愛嬌ということで、難しく考えずにやりたいと思います。じゃあよろしいですか。1分間計りますので。行きます。じゃあスタート。[二人組での自己紹介が始まる]

こういうゲームは一番最初に始めた方が有利なんですね。なぜかというとどんどん忘れていってしまうものですから。一番最初に始めたい方いらっしゃいますか?(複数のグループが挙手)ではここが一番早かったのでこちらのペアから。どっち回りにしますか?ではこのお二方から向こう周り(時計と逆周り)でいきたいと思います。[ひとりひとり他己紹介]

これでみなさんですね。正直言いますとずいぶんたくさんの方がいらしていてちょっと緊張しているんですけれども、今お話を聞いただけでもすごくいろんな現場であったり、いろんなところでふだんは活動されている方が一緒にいらっしゃっているようですね。まず一番最初に私から問題提起となるようなお話をさせていただきたいと思うんですが、その後はぜひ多声的に皆さんの経験とか考えていらっしゃることを交換していただいて、私もちょっと学んで帰りたいなと思っていますのでよろしくお願いします。

私の履歴

今のお話を聞いていまして、大半の方は研究というよりも実践をされているという印象を受けました。自分自身もスタートは実践の方でした。そして、実践をしながら研究をするということを考えてきました。なので、今日のテーマは、「実践」と「研究」という二つの間をどういうふうに考えていくのか、つないでいくのかということになってくるかと思います。

先ほど自己紹介を高山さんから他己紹介をしていただいたんですけれども、私がなぜ演劇教育の実践の研究をするようになったかというと、二つの出会いが自分にとっては大きかったんですね。これらは、いずれも自分が大学3年生の時に出会ったものです。一つがインプロというものです。これは即興演劇のことなんですけれども、特にアメリカ、カナダを中心にして1960年頃から行われている即興演劇を、特にインプロというふうに言います。即興自体はすごく古くからあるものですし、役者のトレーニングとして即興を用いるということはずいぶん前から当たり前のように行われているようなものだと思います。けれども、この60年代に、その即興でやるものを実際に演劇として、即興だということで観せてしまおうというようなムーブメントがありました。そこで生まれてきたのがインプロです。キース・ジョンストンという人とヴィオラ・スポーリンという二人の大きな人がいるんですけれども、二人ともゲームとかアクティビティーを使いながらやっていくという手法です。そのインプロのワークショップに大学3年生の時に初めて出て、すごく面白いと思ったんですね。それが一つ。

もう一つが渡部先生との出会いです。日本演劇学会の会員でもいらっしゃるんですけれども、日本大学の渡部淳先生という先生がいらっしゃいます。私が最初にお会いした時にはまだICU高校というところで高校の教師をされていまして、政治・経済とか倫理の授業をずっと持っていらっしゃいました。同時にICU高校というところは帰国生の受け入れ校だったんですね。渡部先生は、ある日、黒板に書きながら話をする、渡部先生の言葉で言うと「チョークアンドトーク」の授業をやっていたら、帰国生の子に「先生そういうのがずっと続くんですか?」「私のいたところではもっとリサーチやったりプレゼンやったりしたんですけど、そういうのはないんですか」みたいなことを言われて、教師として大きなカルチャー・ショックを受けたのだそうです。それ以来、じゃあ彼等がどういう教育を受けてきたのかという研究をしてみると、すごく参加型。渡部先生の用語でいうと獲得型、みずから知識を獲得していくという獲得型だったんですね。それ以来、獲得型の授業をいろいろ探索されていて、ある時期にはディベートというものに入ってこられていました。私が渡部先生に出会ったのは今からもう十年近く前になりますけれども、その頃に先生は演劇を使うという方にかなりシフトしていらっしゃった頃でした。私は教職を取るために公民科教育法という授業を取ったのですが、その授業が渡部先生の授業でした。なので、そういう先生とは知らずに取った授業だったんですけれども、そこで、「あぁ演劇を教育でやろうとしている人がいるんだ」ということを知りました。渡部先生も面白く思ってくださったかどうか知らないんですけれども、それから学生を飲みに連れて行ってくださったりするようになりました。そこで渡部先生に「今演劇教育って誰もやっている人いないから、今行くと君はパイオニアになれるかもしれないよ」と言われました。それまでは就職するつもりだったんですけど、結局そのまま大学院に行ってしまいました。そういう二つの大きな出会いがすごく自分に影響を与えました。

もう一つ自分のバックボーンを語る上で大事なのが、もともと私が社会心理学をやっていたということです。学部の時はずっと社会心理学でした。別に大きな理由があって選んだわけではなくて、社会というのは自分の外の世界、心理というのは自分の内側の世界ですから、社会と心理なら全部だろうと思って社会心理学にしたんですけれども。それで実際に入ってみると、すごく心理学って自然科学に近い方法、かなり厳密な科学的な方法を取るんですね。ここでじっくりその科学的な方法というのを叩き込まれました。だからそれ以降ずっと、研究方法というものについてすごく意識が向くようになったということがあります。このことも自分にとっては大きなことかなというふうに思っています。

どのように実践を研究するのか?

そういうバックボーンを持ちつつ、演劇もずっと好きでした。そして、その後インプロに出会って、そのインプロを高校や、いろいろなところで教えるようになりました。そして、自分の実践を題材にして、演劇教育の実践を研究したいと思ったんですね。その時に、私は二つの問題にぶつかりました。

問題の一つ目は、どのように実践を研究するのかという How の部分です。その演劇教育の実践を研究するためには、演劇教育の実践をすることによって、子どもに、生徒達に、どんな学びがあったのかとか、どんな変化があったのか、別の言い方をすると、どんな効果があったとかどんな意義があったのかということがわからないといけないわけですよね。それを研究なので、なんとかして記述しなければいけないわけです。じゃあどういうふうにして記述できるんだ?と思った時に、今までの教育実践の研究法を参考にしてみてみたんですけども、何かしらずっと腑に落ちないものがありました。

一つ自分になじみがあった研究方法というのが量的調査法というものでした。私は社会心理学をやっていたので、実験とか質問紙調査のような数量調査の専門だったんですね。卒論では、こういう研究法をそのまま使って子どもの変化を見れないかなと思って、教室に入ってみたわけです。そうしたら、実際入ってみるとほとんど見えないということがわかって。というのは、量的調査法のほとんどのものは、使用前・使用後というテストなんですよね。使用前に何かテストを受けてもらって、実践をやって、使用後に同じテストをやってもらう。そして、そこに変化があるかどうかで、この実践に効果があったのか、意味があったのかということを測るわけです。ただ、そのような時に使う指標というのは、例えて言えば心理テストみたいなものなんですよね。1から5に丸をつけるというものです。それで演劇教育をやった子どもたちの変化というのが本当に全部そこに落ちてくるのかなというのがすごく疑問だったわけです。私は、大半はそこからこぼれ落ちちゃうんじゃないかなと思ったんですね。すごく限界を感じました。

フィリップ・テイラーというオーストラリアの演劇教育の研究者がいます。彼が著書の中であるエピソードを紹介しています。彼が大学院生の時に、私と同じような問題にぶつかったんだそうです。博士論文を書かなきゃいけないというふうになって、じゃあ実践に入っていって、結果を出さなきゃいけないから、調査をしなくちゃいけない。それで、調査票をつくって指導教官のところに持っていったんですね。そこで指導教官に「あなたが今まで学んできたものは何だったんですか。あなた、演劇を学んできたんでしょ。演劇というのは人間が生きるということがそういう量的なものとか何かに還元されていくのではなくて、豊かなものを持っているものだっていうことを教えてくれるのではないですか?あなたは演劇をやっているのに、演劇教育の研究をそういう手法を使ってやるんですか」って言われたんだそうです。彼ははすごく衝撃を受けて、もう一回研究方法を考え直さなきゃいけなかった。こういうエピソードです。自分もそこまで大きな出来事ではなかったんですけれども、一つこの問題がありました。

じゃあ量的な方法ではない方法にどんな方法があるだろうという時に、一方で実践検討会とか実践研究会なんかに行くと、実践報告とか実践記録というものがたくさん出てくるわけです。ところが、それもなんか腑に落ちなかったんですね。そこで語られることというのは、教師が主観的に見てきたことで、しかも記述が極めて印象的だったんです。「目がキラキラ輝いた」「こういうことするとすごく子どもがいきいきしてきた」というような語られ方をするんですよね。一言で言うと「印象批評」です。それは、「あなたにはそう見えるだろうかもしれないけど、それは本当なんですか?」と言われた時に困ってしまう。また、実際に政策として演劇教育をやらなきゃいけない、やりたいとなった時に、やる意味があるのかないのかを検討するのに、「いや、子どもの目がキラキラするんです!」とか言って、はたしてそれで演劇教育の政策を決めてしまっていいのか、本当に子どもに意味があると言えるのか、というのが引っかかりました。だから自分の中では量的研究法も実践記録の方も、どっちも腑に落ちなかったんですね。だからその間で模索をするということになります。

なぜ実践を研究をするのか?

二つ目の問題は、なぜ実践を研究するのか?ということです。教育研究者という実践を研究する人がたくさんいらっしゃると思います。じゃあ、なぜ研究者は実践を研究するのか。私がそう問われた時に、正直なことを言うと、学位のためというのと就職のためというのがまず出てきちゃうんですよね。もし私が仮に学位を取って就職したとしても、その後も実績を積んでいかなきゃいけない。まして今は国立大も全部独立法人になっちゃいましたし、業績が非常に求められる時代になってきています。そのような中で、研究者はたくさん業績を生産していかなければ、研究者として大学にいられなくなってしまうという現実があるんですね。だから研究者っていうのは、もちろん実践を対象にしている限りは実践を研究しなきゃいけない。そういう意味でもしなきゃいけない。

ところが、その時に実践者はどういう扱いを受けるかというと、一方では批判をされてけなされるわけですよね。「あなたの実践にはこういう問題点がある」ということを言われるわけです。実践者は試行錯誤でいろいろやってきたものをそういうふうにけなされて、自信を失ってしまいます。一方で、持ち上げられる人もいるんですね。ある人が素晴らしい実践をやっているというと、みんなで駆けつけるわけです。みんなで記述して、「こんな素晴らしい実践がある、こんな素晴らしい実践がある」と本人も思っていないような記述のされ方をしたりする。そうすると、本人は今やっているその実践を守ったらいいのか、あるいは自分は今変えていきたい気持ちがあるんだけれども変えていってもいいのだろうかと悩みます。そして、そうやって持ち上げられたことによって逆にスランプに陥ってしまうといいますか、実践者として問題を抱えてしまうということがある。大きく分けると、こういうけなすタイプの研究と持ち上げるタイプの研究が実践研究に多かったと思うんですよね。

そこにもみられるのが研究者と実践者との間の権力関係、非対称性だと思います。つまり、実践者というのは常に研究者に記述される対象になってしまうんですよね。研究者は実践者を利用して学位を取ったり就職したり業績をあげたりするわけです。それはでも、現実そうなんだと思います。そうやらなければ研究者は生きていけない、そういう現実が私の目の前に現れてきたわけです。少なくとも自分にはそう感じられたんです。もう一つが、理論と実践の乖離と言われるものです。これは古くて新しい問題なので、常に言われていることです。理論家は現場を無視して理論をつくってしまう。実践家は、「あいつら現場のことがわかっていない」と言って理論家の話を聞かない。そして、理論は理論で生産をして、実践は実践で生産をする。そうしてその間に相互交流がなくなってしまう。このような現象です。

この問題も自分の頭の中にずっとありました。だから自分は研究者として理論を生産していく方なんですけれども、現場のない理論ではいけないんじゃないかっていうことを思っていました。また、どこかで理論は実践の問題解決に役に立たなければ、いくら理論をつくったってそれは自己満足なんじゃないかっていう思いをずっと抱えていました。だからこの二つの問題が自分の中では、修士課程に入ってからなんですけれども、ずっと中心にありました。

実践とは何か?

じゃあちょっと視点を変えてみて、実践とは何かっていう問題についてちょっと考えてみたいと思うんですよね。この実践とは何かということについては多分たくさんの考え方があります。特に実践をやっていらっしゃる方は、自分の中で実践をこういうふうに定義しているというのがあると思います。それをちょっと整理してみようと思います。狭義、狭い意味での実践概念というのは、「何かをする」という実行のことを指していると思います。つまり、教室に来て授業をするその場面のことを教育実践というふうに言っている。だからその教室で何か子どもに対して働きかけるとか、何か話をするとか、何か知識伝達をするとか、それが教育実践。これが狭い意味での考え方だと思います。

ちょっとそれでは息苦しいなというふうに私は思っていまして、広義の実践概念というのを使っています。これは多分にデューイの影響などがあります。何かを実践するということは、その前に計画があるわけですよね。どういうふうに実践しようかという計画があって、それを実行します。実行した後は、子どもたちがどうなのかということを観察します。記述でもいいでしょう。それをなんらかの形で認識します。そして、それを振り返ります。それでよかったのかどうか。もっといい方法があったのかどうか。あと、新しい問題がでてくるかもしれません。そして、省察が終わるとまた新しい次の計画が生まれてきます。この計画→実行→観察→省察というのはサイクルでずっと回っていくものなんです。このサイクルが次々次々繰り返されていくものが教育実践である。ひょっとしたらそのサイクルの中からまた新しいサイクルが生まれてきて、また別の実践が生まれてくるかもしれません。私は、実行だけではなくてその前の計画とか、どうやってそれを見て認識するのか、それをどう振り返るのかということも実践に含めていいんじゃないかと思ったんですね。

そうしたら、私のゼミの先生のようにもっと広義の実践概念を持っていらっしゃる方もいました。例えば教室で出会う教師と生徒ということについても、教師はちゃんと個人史をもっているし、生き様とか生きがいとか、何をどうしてどう生きてきたかというものを持っている。生徒も文化的な背景とか歴史的なバックボーンを持っている。そして、その人たちが出会う。それがまさに教育実践なんだという、ただ何かをするという意味以上のものを教育実践概念に含めていくということを言う方たちもいます。いろいろな教育実践概念があるんだなぁということなんですけれども。

面白いのは広義の実践概念だと、研究というのはすでに実践のプロセスの中に含まれているんですね。つまり実践をするためには、したことをどうやって観察して記述するのかということと、それをどう振り返って次の計画に移るのかということをしないと実践ができないわけです。だから実際に授業をするということと、それを研究するということをぐるぐるぐるぐる回していかないと実践は生み出されないということなんですね。だからそういう意味では実践者もみんな研究をしているんだというふうに言えないかというふうに思いました。そうすると、どのように観察するのかという最初の問題に戻ってきます。そこで私は、大学の学部まではずっと量的な調査法・研究法についてやってきたので、ちょっと質的な方にシフトしてみようと思いました。大学院に入って、佐藤郁哉先生という先生が一橋大学にいらっしゃいました。「フィールドワーク」という本も書いていらっしゃる質的な研究法ですごく有名な方です。その先生のところで、実際のフィールドワークの技法というものを学びました。具体的に言えば、フィールドノーツのつけ方であるとか、そのフィールドノーツからどういうふうに、エスノグラフィーと言うんですけれども、最終的な民族誌や報告にまとめていけるのかっていう、基本的な手法をそこで学びました。すごく面白いと思ったんですよね。人類学者が、昔のマリノフスキーとかそういう時代ですけど、「未開」といわれた土地に行って、そこの土地の人たちの様子を実際にその場に参加しながら、自分の体験とか感情なども含めて記述していって、そこから何か報告書を生み出していく。そういう人類学のように、まぁ社会学もそういうフィールドワークを使っていきますけれども、そういうふうにして教育実践を記述したりまとめたりできないかなと思ったんですね。こうして、人類学のフィールドワークとかエスノグラフィーとを参考にして、こういう方法を使って実践を記述するっていうことはできないかなということを考え始めるようになりました。

そうすると、そうやって記述したものがどういう意味を持つのかということがまた次の問題として出てきました。あのクラスではどうだったということがぐぁーっと書かれてですね、それを読んでどういう意味があるんだろうということを思ってしまったんです。その時に考える手助けになったのが、臨床心理学の考え方なんですね。臨床心理学というのは基本的にケーススタディ。ケースを大事にしていきます。だから、私が担当しているAちゃんという子が、今こういうふうになっていて、私がこういうふうに働きかけて、Aちゃんはこういうふうになっていって、ということをどんどん記述するし、研究会ではしゃべるんですね。河合隼雄さんのお話を聞いて知ったんですけれども、臨床心理士、カウンセラーというのは、例えば、高山さんも私も臨床心理士だとします。今日高山さんの報告で、高山さんが例えば小学校2年生のA君の話をずっとするわけですよね。で、A君はこうだこうだと言って。私は小学校6年生のBさんという子を持っているわけです。すると、高山さんの話すA君の話を聞いていて、「あぁそれBさんにもある」とか「あぁわかるわかる」と思ったり、「あっ、これはBさんのあれにも使えるな」と思ったりするわけですよね。だから、すごく個別的なものを抱えているんだけれども、そこにある共通主観っていうんですか。なんか共有できるものが、そういうふうにケースを積み重ねていくことができていくんじゃないかなっていう、なんとなく漠然とした気持ちを持っていたんですね。だからたくさん記述していけばしていくほど、たくさんの報告書ができるだけではなくて、それをお互いに読みあったり、蓄積していくことによって、何らかの共有できるものっていうのが生まれてきて、それがある意味、理論というものになったりするんじゃないかなということを考えるようになりました。だからそういうふうにして、さっきお話した量的研究法でもなくて、実践記録でもない方法っていうのができないかなと、こういうふうに思ったわけです。

アクションリサーチ

そこで、まだ途中ではあるんですけれども、ある一つの自分なりの落ち着いた点がありました。それがアクションリサーチという技法でした。一番最初にアクションリサーチという技法を聞いたのは、佐藤学さんという教育学者からです。私は学部生の時に佐藤学先生の授業をずっと取っていました。だから自分の教育学のベースは佐藤学さんなんですね。その佐藤学さんから、アクションリサーチという方法があるのを学びました。

まず一番基本的なことで、実践について一番知りたかったり一番興味を持っているのは実践者じゃないかと思うんですよね。実際に目の前に子どもがいて、その子どもにどうしたらいいんだろうということを一番知りたいのは実践者なんです。研究者はそこは客観的で距離があります。実践者ほどその問題を解決しようがしまいがあんまり関係ないんですよね。けれども実践者は知りたいんです。そういう時に、その実践者がイコール研究者となってできる、つまり実践も研究もしていくっていう手法があるんじゃないか。それがアクションリサーチです。アクションリサーチのすべてがそういうわけではないんですけれども。実践者と研究者が一緒にやる、あるいは実践者と研究者が同じ人であるっていうような手法で研究ができるんじゃないかっていうことです。

その時に実践者と研究者という二つの自分を抱えるわけですけれども、それぞれ何をすればいのか?それに関して、佐藤学さんが、フィールドワーカーが抱える問題っていうのを3つにわかりやすく整理してくれていたんですね。

彼は、「問題」と「論題」と「難題」という3つに分けていました。「問題」というのは、プロブレムですけど、教育実践で言うと、例えばA君という子がこの繰り上がりの足し算がわからないのをどうやってわからせるようにできるのかというような、実践者が日々抱えている具体的な問題のことです。それが「問題」です。

次の「論題」、イシューなんですけれども、これは研究者が抱える問題で、例えば教室の中に一人エスニック・マイノリティーの子が入っていて、どうやらその子がいろいろ教室の中で問題を抱えているらしい。それはその子の個人的な問題なんだけれども、同時に、エスニシティとかマジョリティー・マイノリティー問題がそこにあらわれているという形なんですよね。なので、そういう個別具体のケースを見ることによって、そういうエスニシティとかマジョリティー・マイノリティー問題のことを考える、というのが研究者の考えるべき問題、それが「論題」というふうに考えます。もちろん今のは例えなので、それがジェンダーの問題なのかもしれないし、どういう問題になるかはわかりません。

最後が「難題」、アポリアです。これはもう解くことができないすごく難しい問題で、哲学者なんかはこういうことを考えるんじゃないかと思います。それは、人はどういうふうに生きるべきなのか、とか、人が学ぶということはどういうことなのか、などといった問題です。それはすごく重要な問いなんですけれども、私がちょっと研究したところでわかる問いではありません。

研究者としての私は、この中の「論題」を中心に扱っていかなきゃいけないんじゃないかなと自分では考えました。ただ、「論題」だけを扱っていると、同時に味気なくなることも実際はそうです。だから、「論題」を扱って「論題」の問題に答えを出しつつ、それが実践者が抱える「問題」の方にも示唆があったり、哲学者が考えるような「難題」の方にも示唆があったりするような研究ですよね。実践者が研究者の論文を読むと、さっきの臨床心理学の話じゃないんですけども、そこから何か自分はこういうふうにしてみたらいいのかなっていうヒントを得たりする。あとは難しい問題を抱えている人にとっても何かしらヒントになったりする。そういうような研究を研究者はできないのかなというふうに思ったわけです。

実践者イコール研究者ですから、実践者としては日々のそういう「問題」を解決しつつ、同時に、「論題」を持ちながら研究者としてやっていくという形だと思います。そうやって実際に研究を始めてみたんですね。

具体的には自分のやった授業について、自分で授業が終わってから記録につけてみるとか、感想文を集めてみるとか、そういうところから始めてみました。そして研究してみると、自分のこと、生徒のこと、自分と生徒の関係がそこで初めてわかるということに気がついたんですよね。自分が当たり前のようにやっていたものが、実はこういう理由があったから自分はこういうふうにやったんだとわかったりします。また、生徒のことについて、例えばA君という子が授業中には全然気にならなかったんだけど、よくよくいろいろ研究をしてみて、自分の実践を振り返ったり、感想文を読んでみたりすると、実はA君がこの授業の中心的な存在だったと気づくとか。つまり研究してみないと、実践の中で必要なそういう認識ができないということなんですよね。研究してみるということは、同時にどういうことかというと、生徒の様子をあらためて認識し直すことであるし、自分がやったことを因果をつなぎ合わせて物語化することでもある。そして、ここまでは自分の中で考えているだけなので、自分のヴォイスだけのモノローグなんですけれども、そこに生徒の感想文というヴォイスが入ってくる。あるいは他に一緒に実践をやっている人がいたら、その人の話というヴォイスが入ってくる。こうしていろんな人のヴォイスが入ってきて、それらをパズルを合わせるようにし、実践をもう一回頭の中で再構築してみると、また違った実践が見えてくるということなんですよね。そういうことがわかってきました。

だから自分は最初に挙げたような問題を抱えていたんですけれども、やっぱり基本的に実践者なんですよね。実践が好きなんです。だけども、実践をよりよくするために研究しなきゃいけないっていうことに気がついたんですよね。つまり研究しないと認識もできないし、実践を多面的に捉えられないということがわかったわけです。なので自分は実践をするために研究をしようというふうに自分の位置を、足場をつくったということです。

ただ、このアクションリサーチにはもちろん長所・短所があります。その中で、特に短所の方を挙げさせてもらいます。いわゆる近代科学的な研究がすごく大事にしていた客観性であるとか一般性であるとか妥当性であるとか、そういうものをアクションリサーチの研究が満たすのかっていうとかなり怪しい部分があります。つまり客観性については、「あなたにとってはそういうふうに見えただけじゃないの」「あなたがそういうふうに記述しているだけじゃないの」というふうに言われたら、返す言葉というのはなかなか難しいです。また、私がやったAっていう実践で起こったことが、はたしてBという実践、Cという実践でも同じように起きるのかというとそうではありません。それから、私が解釈した物語の形というのは、唯一の物語の解釈なのかというと、違ったふうにも物語を組み立てられるかもしれないですよね。そういう短所もたくさん抱えていて、だからいわゆる近代科学的な研究の枠組みでいくと不合格と言われちゃうような研究になってしまうかもしれないと思いました。それは、自分が社会心理学という一番厳しい基準のところでやっていたからでもあります。だから常に自責があったんですよね。自分で自分を責めるようなことがありました。

ただ一方で、そういうアクションリサーチじゃないと掬えない、つまり近代科学的な研究が見落としてきた細かな問題もたくさんあるということがわかっていました。なので、自分の位置づけを考える時に、客観性、一般性、妥当性を求められるのは仮説検証型の研究なんですよね。つまりこういう仮説があって、それは本当にそうなのかということを実証するために質問紙調査をしたり、実験したり、観察をしたりというふうにして仮説を検証していくというスタイルです。けれども、それはとりあえずちょっとあきらめようと思ったんです。それよりも、仮説生成型の研究をしようと思ったんですね。つまり、仮説が本当に正しいのかどうかわからないけれども、何も無いところから理論をつくることはできない。だから、とりあえず私が今抱えている実践を細かく見ることによって、少なくともこの実践はこういうふうに見ることができるんじゃないかという、ものの見方っていうか、理論のたまごみたいなものをつくりたいなと思ったんです。

そういうのがまた蓄積されてきたりして、ある程度共通主観になっていくと、またそれを仮説検証してみようという人が生まれてきたりして。そういうふうにして、なんとなく理論というのが少しずつでき上がってくるんじゃないかなと。で、自分が担当するのは、検討する価値のある仮説モデルをつくることなんじゃないかなというふうに思うようになりました。

だから今でも論文をいくつか書いてはいるんですけれども、その中で書いたことがはたして全部の実践に当てはまるかどうかというと、私もそれは疑問です。でも少なくともこの論文が出したものの見方っていうのを他の実践に当てはめてみてみても、また新たな一面が見えてきたりするという意味では、意味のある仮説になるんじゃないかなというふうに思っています。

実践と理論の関係

次に実践と理論の関係です。とはいっても、じゃあ実践だけ見てればそういう価値のある仮説がたくさん生まれてくるかというと、そうでもないということに気づいたんですよね。現場だけに行っているフィールドワーカーというのは、結局フィールドワークの成果をまとめることはできない。フィールドにずっと入って細かな事実をたくさん見てくるのと同時に、一方ではやっぱりグランドセオリーというような、例えば教育学の理論であるとか社会学の理論であるとか心理学の理論であるとか、そういうものを使わないと、勉強していかないといけないんです。それは具体的に言うと、ジェンダーという価値観を知らなかったら、教室という現場に行ってもジェンダーの問題が全然見えてこないわけですよね。自分がそういう問題をある理論から学んだことによって初めて現場が見えるようになってくるわけです。これは、車の両輪に例えられると思います。だから一方ではその実践を続けていく、フィールドに出て行くということ続けつつ、一方ではそういうグランドセオリーというものを学び続けなければいけないということなんですよね。

その時に自分が取った方法ですけど、本来のやり方だったら、例えば社会学なら社会学をきっちりおさめて、その社会学のものの見方を現場で見る時のものの見方にかっちり決めるっていうのが科学的でわかりやすいかもしれないです。けれども、それはあまり魅力的じゃないっていうか、社会学の角度で見れるものしか見れないわけで、たくさんこぼれ落ちちゃうわけですよね。自分は実践の方を中心においているので、この実践を見るためにはどんな理論が必要かと思って理論を節操なくいろいろかじる方が実践を見るためには有効だというふうに思ったんです。実際そういう研究もたくさんあると思います。社会学を使って現場を見ることによって、なんか本当はもっと大事な問題があったかもしれないのを社会学が曇らせてしまうとか、そういうこともあるような気がしました。なので、とりあえずグランドセオリーを節操なくぱらぱらとやろうというふうに思いました。ただそれは同時に言うと、アイデンティティからすると大きな不安を抱えてしまいました。つまりあなたは何学やっているんですか?と言われると答えることができないんですよね。今でも自分は教育学者なのか社会学者なのか心理学者なのかって言われたら、どれでもないなっていうふうに思います。なので、一度指導教官にそのことを相談したことがあります。私の指導教官は、関啓子さんという方です。教育思想史などをやられている方で、私の演劇とは全く関係がない方なんですよね。ただすごく寛大で、大学院生は自分の研究のマネをしてほしくないということで、いろんな専門の、いろんなテーマの学生を受け入れている先生なんです。ある日、先生に相談したんです。その時に、まさに佐藤学さんを引き合いに出したんですけど、佐藤学さんみたいに、どの学問もきっちりやっていて、それでいて教育実践を見て切り出すんだったらすごいんだけれども、私みたいに心理学ちょっとやって教育学ちょっとやって社会学ちょっとやって、みたいなのってすごい中途半端で、自分でどうしていいかと思うんです、みたいなことを言いました。そうしたら、「じゃああなたは偉大な中途半端になりなさい」というふうに言われたんですね。それでなんか自分の中で落ち着いて、それ以来「偉大な中途半端」を目指して研究をやっているということです。ですから本当に今でも、グランドセオリーのことをちゃんと教えてくださいって言われると本当に自信がないんです。けれどもまぁ、実践を認識するため、実践を見るためにグランドセオリーを勉強しているということです。

一つ付け足しておくと、教育だと教育社会学とか教育心理学とか、教育を頭につけるいろんな学問ジャンルがあります。でも、自分の中ではそっちの方はあんまり役に立たないと思っていました。すごく視野が狭くなりますし、重箱の隅をつつくような研究になりがちなんですよね。それをあんまり勉強していても、実際に実践を見る時の視角というのになりにくくて、それよりもいわゆる心理学とか社会学とかの理論をかじっています。

研究の具体的なプロセス

ここからは研究の具体的プロセスについてお話ししたいと思います。これは言ってみれば、私の舞台裏を明かしてしまおうということです。なのでこれが正しいとか正しくないとか全くわかりませんし、自分でもこれが完成形だと思っていません。ここに大学院生の方もたくさんいらっしゃって、教育実践を研究しようという方もいらっしゃると思うので、ぜひ検討していただいて、意見もいただきたいし、私はこういうふうにやっているというのをぜひパクらしていただきたいなっていうふうに思っています。

1. 資料を集める

研究の具体的なプロセスということで、まず分析材料です。どういうものを材料として集めてくるのかといった時に、まず一つ目が自分が書くフィールドノーツです。フィールドノーツというのは初めて聞く方もいらっしゃるかもしれないですけれども、人類学者が現場に行ってそこで起こったあらゆることをテキストでどんどん書き留めていくものです。まぁ日誌のようなものだと思っていただければいいと思います。ただ、その日誌の書き方にもコツというかテクニックがあります。その書き方によっては、例えば「今日は楽しかった」というだけの日記ではその後研究のしようがないわけです。だから、どう日記を書くかというのが大事になってきます。

そこでポイントとしてまず一つ目に挙げたのは、時系列でなるべく網羅的に書くということです。特に初回に行った時はそうなんですけれども、その日起こったことを、時間の順序で、思い出せる限り、なるべく具体的にどんどん記述していきます。時系列と書いたのは、どうやら私の記憶のシステムなのかもしれないですけれども、時系列の方が思い出しやすいんですよね。授業にいたA君はどうだったかなぁと思い出そうとすると、けっこう思い出せないんです。けれども、時系列に「今日何があったかなぁ」と思い出すといろんなことが思い出せます。なので、時系列で書くようにしています。

また、自分のことを「どみんご」と書いています。私はふだんの授業では「どみんご」と言われているんですね。これはあだ名です。大正大学で学生が私に会うと、みんな「どみんご〜」と呼びます。スペイン語で「日曜日」という意味です。大学の学部生の時にスペイン語をやっていたんですけれども、見た目の雰囲気とか頭の中身が日曜日っぽいっていうことで、それ以来「どみんご」という名前になっています。実際自分がそういうふうに「どみんご」と言われているので、フィールドノーツを書く時には、「私はこうした」「私はこう思った」「私はこう感じた」と書かないで、「どみんごはこうした」「どみんごはこう感じた」「どみんごはこう思った」というふうに書くようにしています。それはさっきの客観性の問題をちょっとでも軽減しようかなということにもなります。フィールドノーツを書く時には、自分から一個距離を置きたいんですよね。自分がどうしたかっていう自分の目で見るんではなくて、ちょっと一個中間的な視点に立って、自分と他の生徒達の関係はどうだったろう、他の生徒たち同士の関係はどうだっただろう、とちょっと上から距離を置いて見たい。ということで、あえて自分のことを「どみんご」というふうに書いています。

次に仲間のフィールドノーツです。今博論をもうそろそろ出すんですけれども、その時に初めてやった試みですが、自分一人のフィールドノーツじゃなくて、一緒にやっている実践者にもフィールドノーツを付けてもらって、それを組み合わせることをやってみました。ここにいる藤野裕美さんも一緒に授業をやってもらって、ノーツを書いてもらいました。他に、卒論のために来ていた学生にもノーツを書いてもらいました。そうして、その複数のノーツを組み合わせて、実践を再現するといういうことを試みています。その方がすごく多声的で面白い感じになってきています。

その他の材料は、感想文・レポートです。これは自分の研究のためということもあるんですけど、むしろ生徒の振り返りのために毎回の授業でやっています。最後に10分ぐらい時間を取れれば時間を取って、A5版のコメントシートを配って、そこに今日の授業で思ったこととか感じたことを自由に書いてもらうということをやっています。それはどういうことかというと、ふだん授業は演劇やインプロのアクティビティが中心なので、ただやって授業が終わりとなると、「あぁ今日は楽しかったね」で終わっちゃうんですよね。それでは、今日やったことが自分にとってどういう意味があったのかとか、日常生活にどういうふうに使えるのかみたいなことを考える時間がないんです。なので、ぜひ生徒・学生にそういうことを考えてほしいなと思って、授業の最後に必ず今日の経験を文章化するという作業をしてもらっています。それは一つにワークショップという手法に関わることなんですけれども、ワークショップという空間はあくまで非日常空間なんですよね。だから非日常空間でできたことが、そのまま日常空間でできるわけではないんですね。例えば授業の中では仲良くやっている子が、実際にキャンパスになると顔を合わせても挨拶できないということはよくあることです。だから、授業という非日常空間と生徒達がふだん抱えている日常生活というのをどういうふうにリンクさせていくかということは常に意識しています。コメントは、その橋渡しにもなっているんじゃないかなっていうふうに思っています。ただそれは同時に、生徒の学びの履歴をみるのにすごく有効な資料になっています。

それからインタビューですね。もし必要に応じて、授業が終わった後にこの学生にもっと詳しく聞いてみたいとか、全部の授業を振り返ってちょっと聞いてみたい、「あの時どう思ったか」と聞いてみたいといった時にインタビューをしています。

あとは振り返りミーティングの記録です。だいたい授業が終わった後、長ければ1時間とか1時間半、その日の授業の振り返りをしています。まず生徒たちの感想文を読んで、今日の授業どういうことがあったのか、ここでどう思ったのか、ファシリテーションがどうだったのか、次回はどうしよう、とかそういういろんなことをそこで振り返ります。その振り返りミーティングをしながら、ノートパソコンを立ち上げておいて記録をしています。それは、テープ起こしをしようと思うと、毎回すごいテープになってしまうからです。なのでその場で入力するようにしています。

2. 資料を読む

こうして記録をし、分析材料が揃います。揃うとテープ起こしが必要なものはテープ起こしをして、入力が必要なものは入力をして、全部コンピュータの中にテキストデータとして入れます。それをプリントアウトすると、資料の山ができ上がります。そこが一番つらい時ですよね。さぁどうしたものかと思う時です。どうもこうもなくて読むしかないわけですね。ここからはですね、私の家の近くにファミレスがあるんですけれども、24時間やっていてドリンクバーがあるんですよ。ひたすらファミレスです、ここは。深夜にファミレスに行って読んでいます。ただ読むだけではどうしようもないので、その時にペンを持ちながら読んでいます。ある程度自分の感性を信じているというとそれまでなんですけれども、もちろんたくさん今まで理論的な本も読んできたとか根拠もない自信も持って、読んで自分が大事だとかひっかかると思うところにひたすら赤線を引いていきます。引きながら、これはフィールドノーツとかエスノグラフィーでは、初期メモという言い方をするんですけれども、線を引いたところにキーワードを書き込んでいきます。例えばこの一行をまとめるとしたらどういう言葉に置き換えられるのかみたいなことを書くわけです。例えばA君という子がBさんとペアになった時に緊張して組むことができなかったみたいなノーツがあった時に、そこに「ジェンダーに対する意識」とか書き込んだりします。最終的にはどういうキーワードでまとめるかわかりませんけれども、そういうキーワード化をなんとなくそこでしていきます。その時に自分がふだん関心を持っていることをやっぱりどんどんどんどん拾うし、そういうキーワードがたくさん出てきます。そこでグランドセオリーが生きています。

3. 分類する

次からの作業はひたすらコンピュータの前でやります。アイデアツリーというソフトがあります。これを使うと、最近Wordにもついている機能なんですけれども、左側に章立てみたいな樹形図が現れて、キーワードを入力することができるんです。そして、樹形図のキーワードをクリックすると、そこに入っている原稿というかテキストが右側に表示されます。こういうソフトを使って、キーワードがいくつか出てきているので、キーワードごとに分類してみるということができます。たとえば「ジェンダー」だったら、「ジェンダー」という項目をつくります。そして、赤線を引いたたくさんの資料の中から「ジェンダー」に関わるような項目を全部カット&ペーストでどんどん貼っていきます。だから、そのキーワードに関わるものだけが見渡せるようになってくるんですよね。それをキーワードごとにいくつかつくっていきます。またキーワードごとに並べ替えたり組み合わせたりもしています。私はキーワードごとのと、あと個人別のをつくっています。個人別というのは、キーワードのところがAさん、Bさん、Cさん、Dさんみたいになります。ここをクリックするとAさんの1回目の感想から、途中の私がAさんについて気づいたこととか、最後のレポートまでずらっと並んであらわれます。そうすると、Aさんの学びの履歴がそこで見通せるようになります。そういう2通りのアイデアツリーをつくります。

ここからは分類をして、ボトムアップです。KJ法という方法があります。川喜多次郎という人がつくった方法ですけれども、そういう方法を使ってカテゴリー分けをして、「今度はこの4つがこういう大カテゴリーにまとまるな」とかというふうに整理していきます。分けながら例えばジェンダーで分けてくると分けている中で気がついてくるようなことがたくさん出てくるんですね。そういう時には、もう自分でテキストをどんどんこの中に記述していっちゃいます。それは場合によってはもう論文の一部分になってくる記述です。そういうものも少しずつ書き始めていきます。だから、「この3つの例っていうのは自分の地の文ではこういうふうに書けるな」みたいなふうにして書いていきます。その作業を進めていって、最終的には順序をどうしようかなぁということを考えます。並びをどっちを上にしたらいいのか下にしたらいいのかということを考えます。これが最終的には章立てになっていきます。これが第1節になって、これが1−1、1−2、第2節、2−1、2−2みたいな形に最終的にはなっていきます。そうきれいにならない時もありますけども、だいたいそうなります。

4. 論文を書く

次が「実際を書く」ということでエスノグラフィーの部分になります。私の論文のスタイルとしては、まず最初にストーリー仕立てといいますか、例えばAさんならAさんがどうだったかということを記述していきます。そういう記述をたくさんつくって、授業の様子というのがある程度読者にとってみえてきたかなと思うところで、後半、分析に入っていきます。なので、最初はストーリー仕立てにしていきます。その時に意識しているのは因果関係です。資料に出てくる事実というのは、それぞればらばらなものでしかないです。それらを「こうだからこの子はこう書いたんじゃないか」とか、「こういうことがあったからこの子はこういうことを授業中に言ったんじゃないか」みたいなふうに因果関係を自分で推測してつなぎ合わせながらストーリーにしていきます。

ここで研究者としての倫理を自分に課しています。それは、なるべく事実をこぼさないように、最終的にテキストを削らないようにするということです。削るっていうのはどういうことかというと、自分の気に入らない例を落とすということになっちゃうんですよね。そうするとでき上がってくる最終的な理論はきれいになるんですけれども、「これホントかな?」っていう形になっちゃうんですよね。だからもし自分の理論で説明できるものが4つあって、1つどうしてもはまらないものがあった時に、その1つを取っちゃうんじゃなくて、なんとか、ちょっとかっこ悪くなるけど、5つ説明ができるような理論に変えられないかなっていうことを考えていきます。それがまぁ自分に課していることです。

あとはヴォイスということで、なるべく引用の形で生徒達の感想文の声とか、あとは振り返りの時の一緒にやった講師の声とかをたくさん入れるようにしています。そうすると自分一人でこうでした、こうでしたと書くよりも、読んでいる人々に説得力が増すように自分では思っています。

そこまでしてだいたいストーリーが描けてきたところで、そこから分析、理論化ということです。じゃあそこでどういうキーワードが浮かび上がってきて、どういう分析が可能なのかということをどんどんそこから整理していきます。最初ボトムアップで理論をつくっていきますから、反対から見るとトップダウンができるんですよね。最終的にでき上がってきた理論からみて、もう1回個々の事実がどういうふうに見えるかということもできます。だから、最終的に論文を書く時には、そういう整理の仕方をして、本当にこの理論が個々の事実に当てはまるのかなっていうのをやっています。だからどの実践にも当てはまるというような一般性は低いんですけれども、この実践に関しては少なくともこう言えるだろうみたいな一般性であるとか、この説明はかなり当てはまっているような妥当性はぎりぎりまで高めることができます。

こういうふうにして、最終的には論文という形として生産していくということになります。でもこのやり方が完全かどうかわかりませんし、自分でもちょっと違ったやり方もチャレンジしてみたいなということは常々思っています。

私の実践と研究

そういう形でいろんな実践を行ってきました。一つが高校でのシアタースポーツという実践です。5人の講師で一緒にやっていたんですけれども、ここにいらっしゃる蔵重京子さんもずっと一緒でした。けっこうたいへんだった学校でした。総合科を持っている学校なんですね。1年目2年目は苦労が多くて、なかなかたいへんだったんですけれども、それだけに1年間やってみると生徒達の変化も劇的だし、その中でドラマがたくさん生まれるんですね。そのことについては今日皆さんにお配りした『即興演劇の授業における教師の支援』という論文の中で扱っています。この中でも一部を紹介しているんですけど、生徒の感想文が、本当に私は実践者としてなかなかこんな感想文には出会えないなっていう素晴らしい内容を持っていると自分では思っています。

2番目がグローバル・クラスというものです。これはまたちょっと違ったもので、学校での実践ではないです。オリンピックセンターとういうのが代々木にありまして、そこで夏休みの間1週間、日本とアメリカと韓国から高校生とその高校の先生が集ってきました。そして、その時には「大都市東京と自然」という共通テーマを持って、東京でフィールドワークをしてきて、最終的にはそれを演劇で発表しようというようなプロジェクトだったんですね。そこにずっと1週間加わっていました。その時の成果というのが『グローバル・クラスにおける学びとは何だったのか』の方にまとめてあります。なので実際に最終的にどういう論文になるのかということ知りたいという方は、こちらの方を見ていただければと思います。もし今日手に入らなかったという方も最後に書いてあるホームページの方に全部挙げてありますので、そちらを見ていただければと思います。

そして、今も継続して行っている実践がいくつかあります。今は大学が中心になっています。大正大学で「ワークショップ入門」という授業を持っています。あとはもう一つ、大正大学の社会探求という授業は、「異文化理解の方法と実践」がテーマの授業でした。「異文化理解の方法と実践」ということで、普通に異文化間の問題についていろいろ講義をしてもいいんですけれども、私はそれをする自信もなかったし、それではつまらないと思いました。そこで、いろいろアクティビティをしながら、そういう異文化の問題とか、マジョリティー・マイノリティーの問題を考えてもらう。そして最終的には自分達でテーマを決めて、リサーチして、演劇で発表するというような授業をやっていました。

千葉商科大学でも「実践コミュニケーション講座」というのを持っていまして、そちらにいらっしゃる山下先生と共同で実践をしています。予定では春学期の方はインプロの方法を使って、ゲームをたくさんやることでコミュニケーションとか人間関係とかそういう問題を考えていきます。秋学期の方は、フィールドワークをしながら演劇をつくっていくことというのをやろうかなと思っています。

今行っている研究ということで、もう博論が佳境でして、6月末に提出しなきゃいけないんですね。一応書きあがっていて、今、先生に見せつつ、ダメ出しを受けて、直している最中です。その研究はどういうことをやっているかというと、今回は「創造性〜creativity」という概念をテーマにしています。インプロの中でもキース・ジョンストンという中心的な人物がいるんですけれども、彼のインプロというのを中心に考えて、はたして彼のインプロは創造性を育むことができるのか?というのをテーマにしています。まず、彼の方法論というのを彼の文献とか、彼にインタビューをたくさんしたのでそういうものから明らかにします。それから、実際に海外で行われている実践を参与観察してきて、最終的には大正大学のワークショップ入門の授業に落とし込んで、実際に創造性をテーマにした授業をやってみる。そして、その時の様子というのを、今お話ししたような手法で記述して最終的にまとめていくということをしています。なかなか「創造性」というテーマは難しくて、どれだけの成果が挙げられたか読者の判断を待たなければいけないんですけれども、ただすごく実践もこの研究によって豊かになりましたし、研究についても実践から面白いことがたくさん発見できたと思っています。

じゃあずっと長く発表してきましたけれども、一応これで発表の方を終わりにしたいと思います。何か、この発表についてのご質問とかを受けて、その後ちょっとフロアにお返しして、ぜひ皆さんがどういう実践をされていて、その時に研究というのがどういうふうに位置づいているのかとか、こういう手法を使ってやっているんだとか、そういうことをぜひ教えていただけたらなというふうに思っています。

[質疑応答]

記憶について

──詳しく現在進行形の研究の方法を紹介してくださって勉強になったんですけれども、具体的プロセスという中で、一つは分析材料を構成する段階なんですけれども、ここのところですごく面白かったのは、演劇の理論的な研究をやっているところから出発したんですけれども、同じだなって思ったんです。演劇というのも消えてなくなってしまうものなので、上演が終わるとね。それをどうやって研究するかというと、対象を自分で構成しなきゃいけないですよね。その時に僕自身が感じていることは思い出すという作業が基本なんですけども、書きながら思い出す、書くことで思い出すというのが基本なんですけども、そこで記憶というのはよく言われるように、記憶というのはすなわち一種の製作・構成作業ですよね。捏造というのがつねに付きまとうわけで、その点どういうふうな神経を使っておられるかなということです。

もう一つそれと若干似ている問題点なんですけれども、アイデアツリーで配列・症例立てというのを行って、その次ぐらいにストーリーをつくっていく。そのやはり関わる問題だと思うんですけれども、ここが研究の一番苦労するところじゃないかと思うんですね。章立てをどういうふうにしたらいかっていう、そのことね。何をそういうふうにしたらいいか考えるとおっしゃっていたけど、もうちょっとそこを。判断の中で何が起きてきているのかな、どういう判断用要素が章立てをする時に大きく効いてきているのか。そういった因果関係をつくっていく時にドラマツルギーみたいなものが関係していると思うんですよね。なんでそこにこだわるかというと、ストーリーをつくる時にさっきおっしゃったけども、都合のいいストーリーをつくっちゃう誘惑から逃げられないんだろうと思うんですよ。結論先取りをしたくて都合よく当てはめていこうと。そうならないようにある判断に従ってこれが大事だという章立てを行っている、そこのジレンマをもうちょっと考えておられるような本質をお話していただけたらと。

今の第1点目の記憶のことなんですけれども、記憶というのはもう一回自分で再構築しなおすもので、それが実際に起こったことと違ってくるというのは全く私も同意見なんですね。なのでまずフィールドノーツをつける時のコツとして、なるべくまず近い、授業が終わってそんなに時間が経たないうちにフィールドノーツをつけてしまうということをなるべく心がけています。自分の経験だと時間が立てば経つほど記述量が減ってくるのと同時に、なんかもうストーリーになっているんですよね。フィールドノーツはあくまで最後にまたそれを分析してストーリーにしていくための素材ですからなるべくたくさん網羅的に書きたいので、なるべく時間を空けないで書くようにしています。本当を言うと寝るとなんかちょっとまとまってしまう感じがするので、終わってすぐが理想的で、あんまり本来は終わった後に予定を入れないとかということは心がけてやるんですけども、ただ同時にすごく辛い作業でもあるんですよね。みなさんもそうだと思うんですけども、実践をただ回すだけでもすごいエネルギーを使うんです。その上にフィールドノーツってちゃんとつけると3時間とか4時間とか平気でかかっちゃうものなんですよね。だからそれはもう研究者としてのコツなんですけども、あんまり根は詰めないようにしています。1回ぐらいノートが欠けたからといって論文が書けなくなるということはないし、1回ぐらいちょっと時間があいてフィールドノーツをつけても全くできないわけではないし、それで明らかになることもあるので、あくまで100点は目指さないで合格点ということで気を遣いながらやっているというのが現実です。

考え方としては、論文を書く時には過去の自分が書いたものは他人が書いたものとして扱うんですよね。だからテキストを分析しています。だから実際自分も変わっていきますし、つまり1回目の授業が終わった時に自分の感じたり、見たことと、10回が終わって1回目の授業を振り返った時では全然見え方が違うんですよね、当然。だからあくまでフィールドノーツというのは将来自分が昔の自分を他者として分析するための材料だというふうな扱いをしています。だから最終的にはそれを切り刻んだり、まとめをしたりとかっていうことをやります。その時にも「どみんご」と書いておくことはすごく有効なんですね。というのが記憶、どういうふうにノートをつけるのかということに関わる部分です。

2点目のストーリーのつくり方はまさにその通りなんですね。ここが一番研究の面白いところだし、同じものを見ても魅力的なストーリーや魅力的な章立てになるかならないかっていうのは、そこがまさに核心です。一つはそれは論文を書く時によって違うんですけれども、最初に分析枠組みを考えることはあります。だからグランドセオリーを使って分析をするということがありえます。例えばこのグローバル・クラスのものに関して言えば、デューイのモデルというのを分析枠組みとして使っています。学びというものをどうやって捉えるかという時にデューイはそれを相互作用で捉えていて、他者との相互作用というのと環境との相互作用というのと自己との相互作用という3つの次元で捉えています。じゃあ、その枠組で考えていく。他者との相互作用に何があったのか、環境との相互作用に何があったのか、自己との相互作用に何があったのか、そういうふうにして分析枠組みを利用することもあります。けれども、舞台裏を明かすと、実は分析枠組みも後付です。つまりこの分析作業を進めながら、同時にグランドセオリーも読み続けているんですよね。私は、分析の一番最後の段階になって偶然、この佐藤学の論文を見つけて、「これだっ!」と思って、もう一回自分が今までまとめてきたものを、じゃあ佐藤学的にまとめるとどうなるんだろうと、まとめ直してみました。そうしたらわりと今まで説明がつかなかったのが説明がつくようになったので、それでいこうというふうになったりとかもしました。だからさっきトップダウンとボトムアップの話をしたんですけれども、絶えずその往復作業はしています。だからボトムアップして理論をつくろうとしつつ、グランドセオリーか何か使えそうな理論ができたらそこからトップダウンで説明していくとどういうふうに説明ができるだろうか、みたいなことを往復して、これは使えるとか使えないとかという判断をしています。

──すごく僕は面白いと同時に、危ない瞬間だっていう気もする。自分がやってきたことが「あっそうか、これと結びつくんだ」ってわかった時に、それを大きな章にするとね、読んでいると確かに入りやすい、わかりやすいわけですよ。あえて個性的な章立てをするっていうことも大事なんじゃないかな。なんでこの人こんなに章を立てているのかなと読んでくと、実はこの人が培ったものが見えてきたりしますよね。

トップダウンをしていくと必ずもれるものがあるんですよね。それで説明がつかないものが出てきて、それがチャンスだというふうに自分でも捉えています。だからそれは言い方を変えると先行研究をそこで乗り越えられる可能性が出てくるんですよね。既存の理論はそこを説明していないんじゃないかということを言える可能性でもあって、だからトップダウンをやる時にはトップダウンで必ず終わらないように確かにしています。それは確かに、トップダウンして当てはまらないものを切っちゃうとそれだけなんですよね。それは思っています。

異化について

──前半の部分について質問したいんですけども、高尾さんの方でそういうふうに実践と研究を手がけているということはよくわかったんですが、最後の山下さんのお話にも出てきたと思うんですけども、ボトムアップとトップダウンの問題がある一方で、高尾さんは次のような場合についてどう考えていらっしゃるのか。つまりこういうような手法でいった時に、ちょっと僕自身が見えなくなったのは、その時の学生なり生徒さんなり一緒にやっていらっしゃる方々とのいわゆる高尾さんが実践から研究者としてまとめていく過程の中で、わかりやすく言うと一般的にはどうキャッチボールなさっているのか。つまりたまたま坂本忠芳さんのを参考文献として挙げられたりしていますのでお聞きしたいんですが、子どもなり学生なり生徒の方を異化の対象として見ながら、自分の分析なり自分自身の行為についてもう一回見直していくということがあると思うんですよね。そういう異化の作業みたいなものは、このアクションリサーチをやっていく中で具体的に生徒・学生さんなどに対して、高尾さん自身が自分自身を距離を置いて、自分自身を異化していっている部分があると思うんですが、学生なり何なりという関係では、どう異化しながら研究なさっていってらっしゃるのかということをお聞きしたいと思って。

主観的な、内観的な部分にもなってくるので、はたして本当にそうなのかと問われるとちょっとわからないんですけれども、まず講師としての参加の仕方、つまり実践者=研究者としてどう実践に関わるかということに関しては、研究をしていく中で自分の中で変化がありました。

最初に高校に入っていた時、講師といっても複数だったんですね。それは自分にとってはすごく都合がよかった。というのはなぜかというと、基本的には授業は、他の方が進めてくださっていたんですね。なるべく複数の関わり方で関わろうということで、別の方は客観的に今日は何があったかを記録して、時間管理をしていました。そこで自分はどういう関わり方を求められたかというと、実際に中に入って一緒にやってくださいっていう関わり方だったんですよね。やりながら何か困っている子がいたら声をかけたりとか、気になる子がいたら一緒に組んであげたりとかする、そういう関わり方だったんです。なので、実践をどうまわしていくかよりも個々の学生がどうかなっていうのをゆっくり観察する余裕があったっていうか、つまり実践者としての目的と研究者としての目的が一緒だったというか。つまりじっくり生徒たちを見てそれにどう働きかけるかっていうことができたんですよね。それはそういう意味ですごくうまくいきました。

ただその後は、自分で授業をやりつつ、後で記録もつけるという立場になってきました。その時に、いくつかジレンマがありました。やっぱり自分で自分に嫌悪を感じるのは、学生を研究対象として見てしまう時なんですよね。見ながらキーワードが浮んできたりすると最悪ですよね。そういうので悩んだ時期もあるし、今でもそれがないかというとちょっとウソになる気がしますが、前ほどはそういうことがなくなりましたね。この子は前にいたこの子と同じタイプだっていうのもなるべくしないようにしているんですよ。それをすると、見えるものが一気にこぼれちゃうんですよね。

東さんのいう異化をする作業というのは、振り返りをしてノーツを書く時からなんですよね。ノーツを書く時には、本当に自分も異化をしていますし。だから逆に言えば、その瞬間があるからバランスが取れるということもあるんですよね。生徒との関わりが強い授業ではあるので、その関わりがどうだったろうみたいなのを考えないと、やっぱり本当にあれでよかったのかなんてわからないわけですよね。だからそれを自分を異化してみるっていうのはすごく実践としてのメリットとなっています。

さらにそれを分析する際になると、私が見ていた見え方と、他の講師が見ていた見え方と、生徒が感想文に言っていることが全部食い違うみたいなことがしょっちゅうあるわけです。それはチャンスだと思っています。そこで研究者としての「論題」が立ち上がるわけですね。なんでそこが違ったのかというのがすごく大きなポイントになって、そこから何かが生まれてくることがすごく多いんです。だから、むしろそういう見え方の差異を、変に一緒にまとめてしまおうとせずに、もし違うのならばなぜそれは違ったのかっていうのをその後に分析する。だからそれは自分も含めてですよね。自分がなぜそういうふうに見ちゃっているのか、なぜ自分はこういうふうに行動してしまっているのか、ということを分析するということをやっています。ただそれが本当にできるのかできないのかっていうことは私もいろんなところで議論しています。というのはやっぱり研究者と実践者は分かれた方がいいというような意見をされる方も多いんですよね。つまり研究者は研究者として、実践者の様子を観察して、要するに共同でやった方がいいんじゃないかっていう意見の人もいるので、そこはちょっと意見が分かれるところだと思います。

対象者との関係について

──なぜ実践を研究するのかというところ、ものすごく誠実に語ってもらったかと思うんですけれども、一方でその一つの解決というか、このへんの現実的な諸問題に関わる一つの個人的な納得というのが次の実践とは何かという部分で示されている広義の実践概念の中に研究というのは含まれてくる。一方で、でも高尾さんのようにこれほど研究ということを自覚的に進められている人であるならば、研究プロセス自体もそれなりのサイクルで連関しているわけですよね。だからここで言うならば、広義の実践概念の計画・実行・観察・省察というようなこれが実践のサイクルであるとするならば、またその別の角度から見ると研究のサイクルもまた大きくがっがっがっと動いていると。その時に気になるのが、研究サイクルの最終的な帰結というのが論文なりを提示する核というようなことであるとするならば、そこに被取材者、対象者っていうのはどう関わってくるのかということとか、産物である論文は誰に届けられるものなのか、それのところについてのご意識は?僕についていうとそのへん考えるとたてまえとしては現場に返したい、対象者に返したいと思うんだけども、けっこう無理なので。つまりそうなるとかなり言葉遣いから変えていかなきゃいけない、依拠するフレームですよね、だから「〜学の知見」とか、そういうものもかなり工夫しないことには論文としては体を成さないということがあって、結局自分的に保留しながらも仮につくっているのがこれは自分のためであるっていうことでしかないのかなって僕は思っていますけどね。

先ほど説明したように、1位は自分のためです。やっぱり自分の学位のためであり、自分の就職のためです。そうすると、審査員にどう届くかということはすごく重要であるので、審査員のコメントに応じて直すということは当然やります。そうしないと学位は取れないので、それはまずやります。その次に読者として想定しているところなんですけれども、研究者と言いたいところなんですが、自分で強く意識しているのは実践者なんですよ、やっぱり。というのはさっきの臨床心理学の共通主観じゃないですけど、実践者はわかってくれるっていう手ごたえが修論の時からあるんですよね。研究者のリアクションよりも実践者のリアクションの方が大きいんです。話をしていても、その行間まで含めて読んでくださっていると感じるところもあります。実践者の方も今までけっこう無意識的にやってきていたものになんかちょっと形を示されたというような印象を持たれる場合も多くて。そのような実践者と関わっている時には、本当に自分のやっている研究が意味を持つなというのを直接的に感じられます。だから言葉遣いも、自分の文章力に自信はないんですけれども、なるべく平易にということはすごく心がけています。自分自身もあんまり難しい言葉にされるとよくわからないので、それは思っています。あとは、学校のためではないんですよね。以前論文を書いた時に、学校の方にチェックしてもらったんですよね。それはプライバシーの問題が絶対こういう研究には関わってくるので、学校の方にチェックを依頼して、もちろん名前は全部仮名にしてあるんですけども、これでよろしいですかっていうことを出しました。その時に、直してくださいっていうのがついたんですよね。というのは中に一部、学校を批判するところがあったんですよね。それを直してくださいと。新しくやった取り組みなので、それをもっと積極的に、ポジティブな面をもっと書いてくださいっていうふうに言われて。それは困りまして、指導教官と相談しました。「そこはあなたの地の文で書いたところで、あなたが感じたこと・思ったことであるので、そのまま出しなさい」っていう指導教官の判断で、そのまま出しました。とかく対学校になるとやっぱり成果とか、これがよかったのか悪かったのかという話に落ちやすくなってきて。

先ほど山下さんのところでもそれを説明しなきゃいけなかったと思ったんですけども、基本的に自分は「論題」として、この実践がよかったか悪かったとか、自分がよかったか悪かったとか、意味があったかなかったかとかというのは扱わないようにしているんですね。それが入ると一気に自分の都合のいいストーリーに、つまりディフェンスに入っちゃうんですよね。だからそこからはフリーになりたいと思っていて、自分の実践がよかった悪かったとか、この実践に意味があったかなかったかというのは書かないんです。けれども、学校はやっぱりそれを求めてくるということがあって。だから学校のためではない。

あとは対象者に返したいという気持ちはすごくあるんですけれども、そこは今でも自分で時々悩むところで、返す時もあるし返さない時もあるというのが現状です。たぶん何だかんだ言って、ある形で、仮名ではあれ表象して、その人のストーリーを勝手に組んでしまっているので、人によってはすごく気分を害されたり、私はこうじゃないっていう主張されたりがあると思います。それは当然だと思います。人類学の中では実際に対象者に返すということは行われているので、それも一つの解決法かもしれません。ただ、もし自分がそれをやるんだとしたら、なぜ私が描いたストーリーに対してこの人が違うと言ったのかというところにまた「論題」がある気がしていて、それこそが扱うべきかなというふうに今は思っています。ただその取り組みはまだ完全に行われていなくて、博論についてもどうしようかな、あとほとんど対象の人が英語の人だったのでこれを英訳しなきゃいけないのかなぁとか、そういう問題も含めて悩んでいるところです。

──そこが面白いというか、大事なところだと思うんですよね。研究者の主体性というか位置性ということなのかな、だから人類学とかも古くからそのことは問題にしてきているし、教育学もそうなんだけども、ひょっとしたら我々においてよりいっそう深刻なのかなというふうに思う。というのは実践的な研究の場合、生徒の共同作業者的じゃない?人類学者が一方的に観察するっていうことに比べれば明らかだし、普通の教室モデルに比べても、明らかに共同作業的だよね、我々のやっていることは。とするならば、なおのこと。だからいろいろ演劇とかのクラスで面白いことが考えられるんじゃないかなっていう、その研究者の位置性ということ。

アクションリサーチというものは1950年代60年代にすごく盛んになって、社会工学とか産業の方で使われたんですけれども、それが一回廃れて80年代に再評価っていう形で出てきました。私が知ったアクションリサーチは再評価の方だったんですけれども、なぜ最初に廃れたかっていうと、まさにその問題だったんですよね。コラボレーションといいつつ、結局研究者が実践者を食い物にしちゃったんですよ。だから研究協力者になっちゃったんですよね。要するに研究者はフィールドを持っていないから、現場を貸してもらって論文を生産しただけになっちゃうということになって。そして、やられたことは労務管理だったんですよね。結局社会工学だから。皮肉な結果ですよね。だからそういう問題を常にはらんでいる手法だなというのは感じています。

アクションリサーチとケーススタディー

──基本的な質問で、研究の方法で、今アクションリサーチのお話があったんですが、そこのところをうかがいたかったんですけれども。アクションリサーチとケーススタディと、私自身も方法論を考える時に、アクションリサーチとケーススタディ、今アクションリサーチが非常にさかんだっていうのは知っているわけなんですけれども、どこが違うのかっていうのか非常に現場でやる時にわかりにくかったところで。今はかえってコラボレーションということが、アクションリサーチの方法論として、ケーススタディとの違いは?

自分で必要なのでアクションリサーチの歴史とかいろいろ調べてみたんですけれども、現代はアクションリサーチというのは広義的に使われるようになってきてしまっていて、結局自らがアクションリサーチと名乗ってしまえばアクションリサーチになってしまう部分も多いんですよね。以前の方は、すごく明らかで、もともとクルト・レヴィンという人が最初なんですけれども、社会学がある理論を考えた時に、それが実際に役立つのかどうなのかわからないので、それを現場に落としてみてやってみる、で、効果があったのか無かったのかを検討して、効果が無ければ新しい理論をもう一回つくり直すっていうことをやっていたんですよね。だから実験にすごく近いと思います。例えば民族の偏見の問題についての理論をつくった時に、大学の中で黒人と白人が一緒に住んでいてうまくいっていない寮で、理論から導かれた手法をやってみて、はたして仲が良くなるのかならないのかを量的に検討してみる。こういう手法がアクションリサーチだったんですね。そういう意味では本当にある理論が現場に落とした時に効果があるのかないのかっていうのが、もともとのアクションリサーチであったと思います。ただ再評価されてからのアクションリサーチっていうのは、たぶんそういうふうなものよりももっと広がっていて、つまり実践者がイコール研究者のものとか、実践者と研究者が共同でやっているもの、特に研究者が実践のデザインに加わっているとアクションリサーチと呼ばれるようになってくると思います。ケーススタディは逆に個々のケースを扱っているものを全てケーススタディと言っちゃうので、ちょっと軸がずれてきてしまうかもしれません。

研究のテーマ設定について

──二つちょっと全然別の質問があるのですが、まず実践の記録をつけるということについてなんですけど、私自身は沖縄の小さいフリースクールのような学校でボランティアをして、その後大学院生になって研究をするっていうことで、エスノグラフィーの方法を使うのでフィールドノーツを細かくつけるんですけど、例えばこのフィールドノーツを高尾さんは自身でつけられていて、実践者としてどこまで詳しく書くことが役に立つんだろうっていうか。印象で「あ、今日は生き生きしてた」とかそういうことを覚えているだけでも、次の実践とかでも生かせそうな気がするんですけど、細かくいろんなことを書いていることで実践の中ではどういうふうに役に立っているのかな、とういうのが一つ。もう一つが、これはちょっとぼんやりした質問なんですが、多声的な声を取り入れていく、分析する時に、例えばAさんは「〜ちゃんが生き生きしていた」と思って、Bさんは「今日はぐったりしていた」とか、Cさんは「落ち込んでた」というと、子どもの変化とか学びとか様子って何だったんだろうとかわからなくなってくるじゃないですか。それをじゃあなんで意見が違うんだろうと分析していくと、最後には例えば高尾さんがやっている、「ジョンストンのインプロは創造性をはぐくむことができるのか」とか「子どもはどんなふうに変化したり学んだりしたんだろう」とかということにどうつながっていくのかわからない。ばらばらに皆違う意見で。実践者分析みたいな言及っぽくて、最後に子どもにどうつながるのかなっていうのがわからないんで。

どうして違う意見だったんだろうとか、実践者同士の見方が違うっていうのはわかってくるけど、それは子どもの変化とか学びとか見られるのかわからないんですけど、最後の今おこなっている研究のテーマとかのこの答えにどうつながるのかなというのがわからない。

そちらの方が答えやすいのでそっちの方から答えたいと思うんですけれども、それについては、もしそういうテーマが浮かび上がってきた時に、最初に立てた論文のテーマをがらっと変えてしまうことすらありえます。もしこれがそれぐらい重要なテーマだと思うのならば、今までやってきた仮の枠組みというかテーマを全部変えて、新しい枠組みを持って来て、それでもう一回組み直し、分析し直したりすることもあります。

いくつかそういう例もあって、演劇学会の紀要で扱っている即興演劇の授業の中で、読んでいただければわかるんですが、コウジさんという人がいました。授業の時に体操服で来なさいっていうのに体操服で来ない子がいるんですよ。男の子で。二人いて。彼はすごく怒るんですよ。その子たちに対して注意して怒って、「絶対来週着て来いよ」と毎回言うんですよね。でも、毎回着て来ないけど。僕は彼等の別の面を評価していて、そんなことにそこまで目くじらをたてて怒らなくてもいいんじゃないかとずっと常に思い続けていたりとかしていました。そういう違いが出てきたりするんですよね。だからコウジさんと、同じように考えるヒデさんっていう人の考え方が本当にわからないし、違うんだなって思ったんです。

ただ集めてきた資料をもとにしてもう一回、じゃあなんでこういう意見の食い違いという現象が出てきたのかを分析してみると、コウジさんとかヒデさんというのは単に体操服を着てこないのがムカつくとか嫌だからといって怒っているのではなくて、実はこの授業の場を安全な空間にしようとしている。基本的なルールが確実に守られるようにし、もしそれを乱す人がいると、きっちりファシリテートする側がそれを指摘する。彼らが怒ることには、安全な空間をつくるっていう意味があるというのを論文を書いてみて発見したんですね。紀要の論文はそういう意味では焼き直した論文と言えます。もともとは学びについて論文を書いたんですね。でも、そういう1個のテーマが残っていたので、そのテーマを基にして、教師は学びの場にどう関わればいいのかというテーマで論文を書き直したんです。だから同じフィールドを分析していてもそこから2本も3本も、テーマによって論文が生産されるということもありえます。むしろその方が自然だし、「こんなに手間かけて1本かよ」みたいに思う時もあるので、そういう方がいいかなと自分では思っています。

最初のご質問ですが、これも自分の中の省察なので難しい部分もあるんですけれども、実は面白いのが、ノーツをつけて一番意味があるのは、書かなかった子についてなんですよ。フィールドノーツを書いていて、最後まで一回も出てこない子が出てくるんですよね。ファシリテーター用語では「落ちる」っていう言い方をするんですけど。「あっ、この子落ちてた」っていうのを気づくことが第一に有効です。僕の場合は能力がないので、十数人越えだすと落ちる子が出てくるんですよね。ある意味、見えやすく出ている子の方がいいっていうか、問題がないっていうか、それは逆にみんなに見えているのでケアされる可能性が高いんです。けれども、誰にも見えていないのは逆にすごく恐くて。だからそれをチェックするのにはまずすごく役立っていると思います。

あとは、やっぱり自分自身のこと。今日何をやったのかということを時系列で書いていくので、自分がこれをやる前にどういうことがあったかというのが見えますよね。そこで初めて「あっ、こういうことがあったから、今日のメニュー、こういうふうに変えちゃったんだ」とか、「こういうふうにしたんだ」っていうことが明らかになることがあります。授業が終わった瞬間は、ほんとにただその生徒に合わせて反応してやっていたものがなんか一つ「あっ、こういうふうにできてきたから、そうすると来週はじゃあこういうふうにしていこう」、とか、「この部分についてはもう少しケアが必要かなとか」というふうな次のことに生きるということはあります。他にもいろいろあるんでしょうけど、今ちょっと完全じゃない気がします。

対象者が参加した研究について

──全然関係ないことかもしれないんですけど、こういった研究って研究者の視点から書いたものってすごく演劇的なワークショップ形式の授業とかを見たりしていると、生徒とかそういうのを巻き込んだ研究ってもっとできないのかなって思うことがあるんですけれども。研究者の立場から書いていますよね、参加している対象者を。その対象者を巻き込んでいっていうのを研究している方とかはいらっしゃるんですか。生徒の方の言葉がよりたくさん出ているみたいな……。生徒がどういうことをしているのかという生徒の気持ちとか、生徒の感想文とかいろいろ取っていますよね。使うのはあれなのかもしれないんですけども、例えばいろんなワークショップなんかに出た時に、対象者として参加しているわけですよね。その時に私の気持ちなんかを言ってくれる場合があるんだけど、ちょっと違うなとか、思ったりする場合もあるわけですよね。でもその研究者からみた時には、その人からみた先ほどA、B、Cというのは山本さんも言っていましたけれども、いろいろな見方がある、でその中に対象者となっている人はいったいどうだったのかっていうものも入っているものはないのかなって思ったんですね。

前半の部分はわかったんですけども、後半の部分が……。ちょっと回答になるかわからないんですけど、先にちょっと説明をすると、今日お配りした二つの論文に関しては自分としては生徒の声はあんまり入っていないんですね。それは紙幅の都合です。これだけのページ数しかないので、生徒の声とか実践の様子を書いているとほんとになくなってしまって。最初フルで書いて出したんですけど、リジェクトされて、分析のところをもっと書いてください、様子の部分はいらないからというふうに言われて書き直したっていうところがあります。修士論文とか博士論文になると、もう少し生徒の声とか様子っていうのはたくさんだし、かなりその部分が実は論文のほとんど厚い部分を占めてきます。

──後の部分は振り返りの時に生徒がするんじゃないのか? ということ?

──あとね、演劇的だから、小学生とか高校生とかは無理かもしれないけど大学生なんかだったらそれこそもう少し研究に巻き込むようなことはできないのかな、なんていうふうなこと、あと大人の場合。高尾さんとはまた別に。

あ、それできると思います。今聞いてできるなと思いました。自分ではまだちょっとそこまで持っていっていないんですけれども。

──どういうふうな参加度とか、そういうのはまた制限とかいろいろあると思うんだけども、面白いかなと。よりわかりやすいかなと。

──たぶんね、ウォンさんが修士論文の時にやったのがちょっと近いかな。研究的なサイクルの中の分析の部分に対象者も入ってくるっていう。だからその一つのチャンスが演劇的な作業の場合振り返りの局面なんだよね。それの研究をやったじゃない。修論だよね。

──その当時言われたのがむしろ本論の中に入る部分よりも添付資料の方に入れるべきだと。でも私はむしろこれが重要であってそれが実証されるものだから、それがないと添付資料として付けるとなんか全然違うんじゃないのかなって。熊谷先生だけじゃなくて、あと何人か書いた後に見せたんですね。それについての議論の中で、その時は私含めて4人でしたのでその中の2人はそういう意見がありました。

──おもしろかったのが普通振り返り作業というのは然るべきタイミング、で基本的には終わった直後とかにやるのが最もスタンダードだけれども、それをちょっとコントロールして1ヵ月後、2年後、そういうふうにやってみたんだよね。で、いろいろ考えながら最も早い振り返りっていうのが打ち上げだろうと。で打ち上げの時になされるコミュニケーションのタイプ、一方で2年後に成されるコミュニケーションの質みたいなことをわりと環境をコントロールしてやったんだよね。だからなるべく必要な資料をみんなそろえて、みんな参加者も当時の資料を持ち寄って、それを広いスペースで時系列に配列したりしながら、だからワークショップ的に分析をしていくっていう。そういう写真とか見ながら「これもうちょっと前」とかさ、一方で「この時は」って、言葉が交わされていく、それを記録していったんだよね。

──でもそれもさすがにもうちょっと時間が経って、例えばAさんが持ってきた資料と私が持ってきたもの、みんなその穴、例えば取材者側が集めてなかった資料がAさんのところにあるとか、そういうのを埋め込んでいく作業はすごくすばらしいというか、全体像が見えるんだけど、それを並べた後たいへんな作業と埋め込むたいへんさ、それは十分な時間がないとすごくね。あとやる動機づけと気力、そこまでやる根気があるかとか。でもそれをやっていて自分にも今までやってきたプロセスというのは何だったのかなっていうのがすごくはっきり見えてくる部分もあってやりがいもあったんですね。

感想の扱い方について

──たしかにこの手の授業の分析をする時に生徒の振り返りの感想だとかいうのはとっても重要な資料でもあるし、特に長いスパンで半年1年やってきた時の感想を貯めていくと、それが質的研究のデータにもなるし、一方で量的にもなると思うんですね。たしかにそれが僕も修論を書いた時にずいぶんその感想を削ってしまたんですけれども、本当は削りたくなくて一番大事なところだからどーんと真ん中に入れたかったんですが、高尾さんはそのへんの扱いはどういうイメージで?

難しいですね。まず実践というものはすごく多面的なものだと思っているんですよね。だから実践をそのまま描くということは自分の中で不可能だと思っています。でも、実践という立体があるとして、研究者は、そこにある角度からすぱっと線を入れてその断面を記述することはできると思っているんですよね。その断面の切り方が研究者のセンスといわれるところです。その立体を最もよく捉えるとか、今までそう捉えていたものとは違う角度から切ってくるということができるかできないかは研究者の腕の見せ所みたいなところです。そこで切った断面を、切ってきたんだけどそこに何か自分には気に食わないものがあるので落とすとかっていうことはなるべくしないようには思っているんですよね。

ただ例えば今回創造性について実践をやっていても、違うキーワードでいっぱいテーマが見えてくるんですよね。例えばジェンダーという問題で、男の子と女の子がすごく意識し合ってしまって二人組ができないみたいなのがあって。それをどう考えていくのかっていうテーマも出てきます。あとは今まであんまり学校の中で友達をつくる暇がなくて、でもこの授業で今まで知り合うことがなかった人と友達ができたっていうような子がいて、じゃあこの授業の居場所としての機能みたいなのはどうなんだろうみたいなキーワードも出てきます。そういうふうにいろいろ多面的になってくるんですけれども、そこはやっぱり落としちゃいますね。学生のコメントは、あくまで自分の切り口の中に関わってくるものだけが登場するという形になってしまうので、だから中にはたくさん登場する学生もいるし、中にはちょっとしか論文の中には登場しない学生というのも出てきます。ただ違った切り目にするとその学生が主人公になったりもします。

──なるべく研究者としての倫理というところで、事実をこぼさないようにということがあったので、まさしく今の話で、やっぱり切り口から外れたものは落とさざるを得ない場面が出てきて、問題になるのはそれがなかったことにするというのではなくて、落とし方というか、それをまた新しいテーマで、どこか違う切り口でということがあるとは思うんですけども、その落とし方といいますか、落としたものの扱いはどのように?

やっぱりこういろんなテーマが出てきて、気になっているんだけど、今回は入らない、そういうものはどういうふうに扱っていますか。

そうですね。それもケースバイケースです。やっぱり体力的なものとかいろいろあります。実践が同時並行でどんどん進んでいますから、その一つの実践を全部の角度でやっているとこっちの実践もどんどん進んじゃっていて、実際問題無理なんですよね。だからむしろやっているのは、そういうテーマが必要になったりそういうニーズがある時に、じゃあ自分の実践から何か物が言えないかなという、そういうふうな考え方をしています。だからこの演劇学会の論文を投稿した時には、教師というものがテーマだったので、その教師という視点から実践を見直してみたらどういうふうに見えるだろうかみたいなことで再分析をかけるということがあります。でもやっぱりデータはものすごい量なので、ほとんどが使われないデータなんですよね。人によっては巻末資料で付けるっていう方もいらっしゃいます。エスノグラファーの態度として。そういうエスノグラフィーの場合は、洗練された方法を使ってやられる場合が特に多くて、記述のルールの仕方が決まっているとか。そういう場合にはけっこう残せるんですよね。ただ私みたいな場合で量的にどんどんどんどん貯めている場合には、ちょっと巻末に付けるっていったらえらいことになっちゃうので、ちょっと難しいです。ただ、基本的に科学っていうルールにのっとるんだとしたら、ポパーが言う反証可能性が不可欠なんですよね。そうすると、ほんとにこうだったのかっていうのを検証するためには、読者もフィールドノーツとかに戻らざるを得ないわけじゃないですか。本当にそこから取り出してきているのかとか、本当にそういうことを言ってるのかと調べようと思う。それをのっけないというわけなので、そういう意味ではたしかにもうそれは研究者の倫理にかかっているなと。だってノーツに書いてないことも論文に書いちゃったら?ってことになっちゃいますよね。

博士論文について

──もう一ついいですか? すごく研究の方法とかすごく勉強になったんですけれども、今行っている研究の「キース・ジョンストンのインプロは創造性を育むことができるのか」博論のテーマになっていますよね。博論のタイトルとキーワードをちょっと知りたいかなぁと。

そうですか。博論のタイトルをこれから直さなきゃいけない(笑)。タイトルが一番難しいんですよ。本当は「育むことができるのか」というのに抵抗があって、これ、ちょっと価値含んじゃっているんですよね。要するに実践がいいか悪いかの話になっちゃうんで。実はそういうことじゃなくて、創造性というのを目的にして実践をやってみた時に、参加している人たちにどういう変化があったのかってことを分析している論文です。

一章が「ジョンストンのインプロの方法論とその生成過程」です。キース・ジョンストンという人はインプロの世界で実践としてはかなり影響力を持っているんですけれども、どうしてもインプロの本って、自分の理論を紹介して「自分は素晴らしい」みたいな本が多くて、それを比較研究したりとか分析的に検討したものが少ない。ジョンストン自身が書いた著作はあるんですけれども、それをどう解釈するか、評価するかというところまでないんですね。なので一番最初に、ジョンストンの方法論がどうなのかっていうことを彼の著作とか、彼に対するインタビューとか、実際に彼の授業に参加した時のメモを使いながら明らかにしました。彼の場合は、ライフヒストリー、つまり彼がどういう人生を歩んできたかというのが、生み出された方法論に強い影響を与えているので、彼のライフストリーも同時に取ってみて、なぜこういう理論が生まれてきたのかということを一章では明らかにしています。

二章が「Bay Area Theatresports での教育活動」です。サンフランシスコに Bay Area Theatresports、通称頭文字をとってBATSというんですけれども、そういう即興演劇のグループがあって、NPO みたいな感じなんですけれども。そこに2002年に1ヵ月半ぐらいいました。ここは演劇の上演もやっているんですけれども、それと同時に教育活動にすごく力を入れています。サマースクールをやっていて、あと学校でやっていて、企業でやっていて、いろんな場面にどんどんインプロを持って出て行っているグループなんですね。そこの実践に参与観察をして、参加者にどういう変化があったのか、参加者はどういうことを学んだのかを分析したりしています。だからここはアクションリサーチではなくて、エスノグラフィー、参与観察の手法を使って書いている部分です。ただテクニック的にはかなり今回の手法と近いテクニックを使ってまとめています。最近話題になった『ファインディング・ニモ』をつくったピクサーという映画会社があるんですけれども、そこの映画会社もインプロを取り入れていて、そこの企業の人たちがどういうふうにインプロを理解し取り入れているのかとか、けっこう面白い今までにないデータが出ていると思います。

三章が「ワークショップ入門の教育実践研究」で、これが私がやっている授業のアクションリサーチです。これは完全に創造性というのを授業のテーマに掲げて、ジョンストンのゲームを実際にたくさんやってみたんですね。その時に学生にどんな変化があったり、またそこでどういうことが起こったのかということを、記述的に書いた部分です。論文の中で記述量が一番多くて100ページくらいになります。大半は授業の様子とかその時の学生の様子で、そういうことを厚く記述しました。いちおうこういう三章立てになっていて、結論は今しゃべらない方がいいかなと。(笑)まだパクられる可能性が……。

研究の信用性について

──さっきから何回も言っているんだけども、僕も答えがあるわけではないんだけれども、この研究の信用性をうまい言葉で言い表せないかなと。いわゆる実証研究ではないわけですよ。だけど実証的な性格をもっている。分析&理論化というところの「データから理論をつくると、データは理論の証拠となる」で、証拠が提示された研究なんだけど、でも歴史家たちがやっている実証研究じゃないですよね。こういうのをうまい言葉で言い表せないですかね。こういうような性格のものであると。

こういう研究スタイルは、ある意味、演劇教育だけじゃなくて、あらゆる研究にけんかを売っているんですよね。つまりまず一つは科学的な研究っていうパラダイムにけんかを売っているという形になっちゃうんです、どうしても。

だから一つは、いわゆる科学的な研究パラダイムの上に乗った上で、やっぱり相変わらず一般性とか客観性、あと妥当性という概念で議論をして、それでこういうアクションリサーチとかそういう方法は今までないところの補完的要素である、穴を埋めてくれる要素であるというような議論の仕方が一つあります。二つ目がもっとポストモダン的なやり方で、つまり近代科学はもう古いと。近代科学の価値観でやっているからいろんなものが息苦しくなっているわけで、そういう価値観を飛ばして別の価値で測って研究をやっていこうじゃないかと。だから「知」のあり方自体も変えていこうじゃないか。だから中村雄二郎さんみたいな「臨床の知」みたいな、あるいは別の言い方をすると「演劇的知」っていうふうな言い方をするんですけれども、そういう「知」のあり方自体をかえていかなきゃいけないんじゃないかなっていう。このような二つの方向性があると思うんです。

どっちの方向性に行っても、そういう「研究法入門」みたいな本を読むと、それぞれに議論が進んでいます。だから今まで使われている器を焼きなおす形でこの論文の価値を測るということもできるし、新しい価値観をもって論文の価値を測ることもできます。けれども、まだ蓄積が少ないので、それを共有して「この価値観でいきましょう」という段階にはなっていないというのが現状かなというふうに思っています。

──二つおっしゃった中で後の方は僕は個人的には反対なんですよ。あんまりポジティブな結果が出ないだろうという気がして、むしろ穴埋めというか、他の理論の方に賛成なんですけども、私がさっき歴史との比較を言ったのは、歴史の場合にはデータそのままを資料として公開するのがふつうなんですよね。データそのものを撮影してそれを出版するということ自体が強制的になったりするわけですよね。それをやろうと思ったら、人権の問題とかもあって難しいだろうということを痛感していて、そこに一つの明らかな線引きがある。それと今日は「解釈」という言葉をお出しにならなかったんだけれども、主観的な研究で、だけどある程度こういう主体性をもたせたいといった時に、伝統的には解釈研究っていう言葉を使ってきたわけですよね。さっきの佐藤郁哉さんの本も最後の方で制度論から解釈論へ移行を示していましたよね。なんで解釈という言葉を今回は避けていたのかなと思ったんですね。解釈の限界みたいなところを感じられているのかなと。そのへんはどうですか。

今日はそんなに深い意味ではないです。特に研究プロセスの段階では「解釈」と言ってしまうとなんでも解釈になってしまうっていうか。難しいところなんですよね。解釈の部分をどう説明するかというところは非常に難しいところなので、ちょっと今日はあまり触れられなかったと思います。

即興実験学校について

──ちょっと聞き落としたのかもしれないんですけれども、実際に行ってきた実践の中で即興実験学校というのは具体的にはどういう形でやっているのですか?

これはまず、学校ではないんですね。グループの名前でして、私と藤野裕美の二人でやっていて、NPOみたいな形でワークショップをやったりショーをやったりするような芸術のグループです。それは、自分の中でいろいろインプロのことについて学んだりするんですけれども、それを実際に試してみる場がほしい、自分でワークショップをやりながら自分も学んでいける場がほしいということでつくったグループです。二人の問題意識の中では、ただやりっぱなしにするんではなくて、それについて振り返ったり、何か勉強もしたりとか、成果が出てきたらそれを文章にしてみたりとかそういうことを少しずつやろうとしています。

──そこでいう成果が出てくるというのはどういう成果ですか?即興実験学校で振り返りとかをして何か成果が出てきたりしたら、気づいたこと書いたり、どういうことが成果になったりどういうことが評価されるのかな。すみません、変な質問で。

なんかすごい難しい質問ですね。

──すみません。どういう時に「ああ、今日はよかったかな」って。

ああ、それは主観的にはもちろんあります。

──生き生きしてたとか、今日はなんか活気があってみんなよかったとか……。

基本的に振り返りというのは評価をするということもあるんですけれども、一人一人がどうだったかというストーリーを明らかにする。つまり二人でやっている場合はお互い見ているものが違うので、二人で補完しあうことで一人のストーリーが見えてきたり。「あ、この人は今日こういう動きをしていたのね」っていうのが見えたりすることもありますし。‥‥今すごく難しいところに片足を突っ込んだと思っていて、つまりなんだかんだいってインプロも演劇の一つでして、そのインプロの演劇の評価をどうするのか。で、そこにはやはり美学的な問題が当然絡まなければいけないし、批評とか鑑識眼とかオーセンティシティみたいな問題とか、新しい今回あんまり触れなかったような概念とか引っ張り出してきて、議論しなければいけない問題がいっぱい残っているんですよね。またデューイを出しちゃいますけど、そういうふうに「芸術」と「その他の活動」みたいに二元論で分けていいのかという議論も当然残ってくるし。だからそこはまだ自分自身がちょっと到達しないというか、手をつけていない領域だと思っているんですけれども。ただ教育実践自体も、例えばアイズナーという研究者のように鑑識とか批評とかそういう手法で教育実践を分析できないだろうか、評価できないだろうかと言っている人もいます。それは演劇教育だけに限らず、教育実践研究一般として、ただ成果があったとか、子どもが何か成長したとかという問題だけじゃなくて、美学的なというか批評的な評価はできないのかということは問題としてあると思います。

[司会]それでは長時間にわたってしまいましたけれども、様々なご意見、たいへん参考にさせていただきました。高尾先生もどうもありがとうございました。

(2004年5月9日、日本大学芸術学部にて)