東演養成所の俳優教育(原孝)

2021年にサイトの引越しをしている際に見つかった資料です。掲載に問題あればご連絡ください。(花家)

実はわたしの俳優養成所というのがごく例外といいますか、養成所といえるかどうかわからないみたいなところがあって、いまからすこし成り立ちやいまどう いうことをやっているのかよいうことをお話したいとおもうのですが、先ほどの両大学の先生方の話を聞いて、恵まれたというか、どちらの大学もそうですが、 連日稽古がされているというか、わたしのところはまったくこういう養成所があるかどうかわからないのですが、、週に3回だけで、それも2クラスありまし て、演劇を初めて体験する人たちを中心にした本科と、その本科を1年、演劇体験を1年やった人たちが入ることができる専科の2クラスありまして、それを 月・水・金、火・木・土というふうに分かれてやっています。それで時間が6時30分から9時30分までの3時間、非常に短い時間ですので、そのなかで果た して俳優養成ができるのかどうか、そして俳優に必要なものって何なのだろうという問題があります。、カリキュラムの内容といいますのは本当に貧しいもので して、もちろん週3回で月・水・金、火・木・土の3時間ということなので、たくさんのことをやることができません。これは東演が40年近くやってきたなか でいろいろな変遷があり、そのうちあとでお話しますが、劇団をつくられた先生方の知恵なのでしょうか。発声、体操、ダンス、それと演技基礎、これがいま もって続けられています。本当に短くて短くて、お恥ずかしというか、本当にそのなかででも俳優養成をしなければいけないということなので、苦労というか疲 労感はすごいものです。本科というのは4月の半ばぐらいから始まって、8月の初旬に第1期がおわって、夏休みをはさんで第2期というふうに1年間を区切り ます。つまり発声・ダンス・体操、もちろん外部から来ていただいている先生の演技基礎レッスン、それだけのものなんですね。それでわたしは週に1回だけあ る。それから演技基礎というのがわたしと外部から来ていただく方の時間が1時間ある。それが夏休みまでですので、とにかく数がとても少なく、15~16回 しかないのです。それから発声・ダンスにいたっては月曜日だけで月のうちに第1週は発声、第2週はダンスとなるので、これを2つに分けますと、夏休みまで ですと7日間ぐらいしかありません。それで後期になります。夏休みがあけますと、これは本科の話なのですが、卒業制作にかかっていきます。そうしますとそ れは3日間時間をいただいて、その3日間を使って生徒たちと戯曲を選び、半年近くかけて、延べ時間は半年ですが、13回ですね。1年のおわりの3月の半ば に卒業公演ということになっています。なぜこういうふうに歪なといいますか、ほとんど東演以外に夜やっている養成所はあるのだろうかとおもいますし、わた しじしんとしては俳優が育っていくのかなとおもうのです。

なぜこんなになったかというと、すこしうちの劇団の成り立ちをすこしお話したいとおもうのですが、みなさんご存知だとおもいますが、八田元夫氏と下村正 夫氏が2人で1959年に東京演劇ゼミナールとして、スタニスラフスキー・システムの研究会をやろうではないか、芝居をやるのではなくて。戦後われわれは 我を忘れて働いてきたので半分ぐらいが感じていないのではないかというので、東京演劇ゼミナールという名前でスタニスラフスキーの基礎レッスンを、とくに 1部のほうの勉強をやってみようというところから始まったのだそうです。それでわたしはちょうど23歳でしたか、そのときは試験を受けて入るのではなく て、そこに集まった5人の俳優たちの知り合いを一人ずつ呼んできてそれをモルモットにしてすこしシステムの勉強をしようということだったらしいです。わた しもたまたま九州のほうから出てきまして、下村正夫氏の芝居を九州でみまして、「あぁ、これはいいな。」と漠然とおもって東京に飛び出してきたのですが、 そのときは新演劇集会をひらいておられた下村先生ですが、その劇団がちょうど解散しまして、わたしは路頭に迷ってしまったわけです。そういうことで東京演 劇ゼミナールへ入ることができたということなんですが。この両先生は演劇教育連盟の夏季講座などの講師で行っておられまして、そういうときに演劇の指導み たいなものをしておられたとおもいます。それでそのうちにこれはさだかではないのですが、学校の先生方から要望があって、夜でいいからちょっと面倒をみて くれないかと。つまり学校の先生が、演技とはどういうものかということを身をもって勉強したいのでという発案で「演劇教室」というのを1960年に二人で つくられました。それがわたしたちが入って1年半後なのですが、そのうちに、八田・下村氏たちも研究会だけでやっているから、スタニスラフスキーというも のを勉強だけでは物足りなくて、やはり芝居がしたいという願望が強くて、それではその先生たちと一緒に含めて俳優の養成もしようではないかというのが60 年につくられたのだとおもいます。そこで月・水・金というなかで、その学校の先生方、もうすこし枠を広げていろいろな、あの頃は労働者演劇なんかがまだま だ続いていました。状況劇団の指導者の方もみえていました。それから純粋に演劇をやりたい、俳優になりたいという人たちを集めて始まったのが事の起こりな んです。でも当時はいまでは考えられないぐらいのレッスンでした。何をやったかといいますと、スタニスラフスキーの第1部の書き始めのところから1節ずつ 読みながら、またエチュードでやりながら本を読んでいくというのを1年半やったのです。いまおもうと恥かしいのですが、「こんなことやらないと俳優になれ ないのかなぁ。」と、レッスンに行くのにおなかが痛くなったり、登校拒否状態がおこってきたり…。めちゃくちゃやらされ、指導を受けました。本当に単純な 動作、「襖を開ける」「ドアを開ける」とかいろいろな情況の中にすぽんとおかれる。夏の海岸――例えば江ノ島なら江ノ島の砂浜の上に座ってごらん、という ようなエチュードを毎日毎日やらされた。徹底的に嘘を追及するといいますか、二人の先生が見ているわけですからね、それであばかれるというか、それが見事 に的が外れてなくて「どこがどうだ。」「緊張の状態にあってどの瞬間に楽になったんだ。」みたいなことを指摘され、それから他の生徒にも、人を見る――何 かに集中しているところを見る――ことを強いられました。生徒の一人がエチュードをやると、まず生徒たちから感想を述べる、というより批判する。最後に先 生が「どこはどうだった。」「この部分が非常によくなった。」と具体的に指摘されました。ともかくレッスンに行くのがいやな日もありましたが、そうしたエ チュードのレッスンをとおして、自分なりにことばでどうだったと言いにくいのですが、知識とは別にわたしはからだで何かをつかまえたような気がするんです ね。このことがこんにち養成所で若い子たちにやっていることの遺産になっているのかもしれないとおもっているのです。

それでいま前史を述べましたけれども、そのときの先生方を教えていく、先生方に演技を教えていく、状況劇団の人たちに演技を教えていく、それと東演の若 い俳優たちを育てていくということで養成所が始まったのですが、それがだんだん八田・下村両先生が大きい芝居をやりたくなってきて、基礎レッスンがあると ころから中断してしまったというか、先生方もお弟子さんに任せるようになられて、自分は年間1本の演出に力を注ぎ、わりと大きい芝居をやっていて、東京演 劇ゼミナールが2~3年であっという間に劇団東演という名前に変えていったのです。だからいまお話しましたように、劇団東演の俳優を育てるための養成所で あって、単純な養成所ではない。東演の俳優たちを育てるために養成所がつくられたといまもわたしはおもっているのです。ですから本当の意味の技術を身につ けて、劇団に入ってもよろしいというような育て方というものを、まずは自分のところの俳優を育てることが気宇だったのです。それが八田・下村両先生が 1976~77年に亡くなられた後、いまから18年くらい前、1981~82年にわたしたちの先輩が演劇教室という名前で教えていたのですが、やはりそれ ぞれ生活があるもので、演劇だけでは食べていけないというので、わたしたちも先生職を任されるようになりまして、養成所の中が先生が日替りになっていった のです。これはどうもよくないのではないか、いくらなんでも東演の俳優たちを育てるにしても、東演の俳優が教えるにしても、あまりにもバラバラではよくな いというので、では世間の養成所に仲間入りしようというので、うちの経営部の人たちが考えたのでしょう、1982年に劇団東演俳優養成所という名前で現在 に至っているわけですそういう経緯があって、養成所という形が整備されないまま、名前だけは俳優養成所ということになってしまったといいますか、そのへん が杜撰といえば杜撰なのですが、それを養成所として大々的にやるにしてもわたちたちには稽古場がない、うつわがありません。夜しかあいておりませんので、 結局は全日制にはできなかったですし、1つのクラスを毎日やっていくということもできませんせでした。やはり情況演劇、アングラのほうに開設された演劇教 室という形をそのまま受け継いできているのです。

それから、いまどういうことをやっているかという話をすこしだけしたのですが、120日ぐらいしかない短い時間のなかで何ができるかということ、いまお 話したように、夏休みまでの間に例えば発声、体操、ダンス、それだけ。あとは外からいらしていただいた人たちに教えてもらうことはあります。これとてやは り基礎レッスンにしても14~15回しかないですね。そこで、何が、例えば彼らに伝えられるだろうか。わたしのレッスンも前期は14~15回しかありませ ん。それで「何が俳優にとって一番大切なのか」。やはりダンスにしても日本舞踊にしてもデッサンにしてもいろいろなことが必要なのだろうとおもいますが、 では俳優が肉体をつかってやる以上、何が大切かというと、やはり人間の肉体だということですね。だからわたしは何を中心にやるかというと、エチュード、エ チュードです。純忠的にある種わたしが60年代にレッスンの前になるとおなかが痛くなって登校拒否をするような状態にいま彼らをおいているのかもしれませ んけれども、徹底的にそのことをあばくと言ったらおかしいけれども、悪いものは悪いんだと言って、切り取ってしまう。だからわたしが「養成所を担当してく れ。」と言われたときに、わたしは経営部の者に言ったんですよ。「僕はやめさせる名人だよ。大丈夫かね。」「いや、続けてやってくれ。」って言ってね。や めた子はいませんが、そのかわりやっぱり厳しい。いいものはとてもほめます。ただ、ほめて伸ばすということがやっぱりできなくて、いいものはどんなに小さ いことでも徹底的にほめて次の授業に動かしていくのですが、敵もさるもので、原の言っていることが本当に正しいのか?「オレはこういうことをやってき た。」俳優の養成所に入ってくる人たちというのは意外と自信家で、自分は天才のような顔つきをしてきますが、そこをあばいていくわけです。そうするとその リーダーみたいなのが、「オレがうまい」というのが必ず一人や二人いるわけです。その連中がまずい部分を持っていたら、そこのところを切り取ろうとする と、徒党を組むんですよね。原が言っていることが正しいかどうか。彼らはひそかにわたしがダメを出したとき、例えばセリフに入っていくと、「へんなところ で句読点を切る必要はないんだ、言語は。」とわたし流にデクラメーションを教えていきます。そうするとさっき言ったように発声訓練もままならないので、息 つぎもできない。ひょんなところで息をついてしまったりしますので指摘します。そうしますと彼らはどこかで芝居を観に行くんですよ。それで「あっ、原が 言ったことは正しかったんだ。」とあとでわたしに報告するんですね。それくらい教師をなめているというか、そういう連中がいて、それでやっと何か親しく なっていくという問題もあります。だから何かそのへんのところを、つまり我々の後輩をなんとか育てていかなきゃいけないというような、自分の使命感と言っ たらおかしいのですが、やはりどこへ出していっても、例えば東演ではないところへ行っても、「君が持っている技術だったらおそらく大丈夫ではないかな。」 ここをどうしても伝えたい。それがわたしが教えていることが、一緒につきあってやっていることが果たして正しいかどうかはみる人といいますか、本人がおも い、それをみてくれる人たちがおもうことなのでしょうけど。

いまの劇団東演の八田・下村という方の教えをこうた人は5人しかいません。あとは全部うちの養成所出身がほとんどですね。たまに舞台芸術学院から入ってきたというのが一人、桐棚からきたというのが一人おりますが、ほとんどうちの養成所の出身の人たちなのです。

先ほどの先生方のお話で携帯電話の話などがやたらと出てきたのですが、いまの若者は大学生であれ何であれ似たようなものだなとおもったのですが、まった く同じです。まず生徒たちが来るのですが、しつけられていない。世間の常識さえ知らない子どもたちがほとんどのようにわたしにはおもえますが、携帯電話に ついては時々レッスン中に鳴ることがあるのですが、そこで受け答えはしませんね。「すみません。」と言ってすぐに消しにいきます。

だからまずは、俳優になるための何にも基礎ができていない。ただ芸事がしたいという 子たちに何かを、ただの世間の人たちと同じように自分の欲望のま ま、と言ったらおかしいですが、生きていたのでは俳優になれないんだよということを教えるまでに前期の夏休みまでかかってしまいます。本当にひどいと言え ばひどいですけどね。我々大人たちが何もしていなかったのかなとおもうのですが、本当に、例えば外部からいらしている先生にお茶も出さないで知らん顔して たり、その先生方のデスクさえ準備しないで、自分たちだけの準備して、稽古場でごろごろしているんですね。それをいちいちこちらのほうから言わないとでき ないぐらいのところからしつけていく。それでやっと俳優らしいといいますか、そうなっていくのは1年後の「あぁ芝居ってやっぱおもしろいんだなぁ」と彼ら がおもうというのは、卒業公演をやる直前です。だからわたしがここで何か参考になるかなとおもったのは、俳優たち一部分の人が、演技というか、人間と人間 の関係というのは何なのかなとか、誰かに話しているときに働きかけるというのをほとんど知りません。だからわたしがとにかく1年間かけてやることは何かと いったら、人間と人間の変化が、芝居とはおもしろい、人間はおもしろいもので、君たちがきっちり相手役にアタックしてくれないと、関係性がないとだめなん だということです。

それで、わたしがいままで10数年やってきているなかで、非常にすっと素直に入っていく生徒たちはどういう人がいるかというと意外と集中力を身につける のが早いのが、体育界系の人たちです。これは彼らがやっていたスポーツの集中力と何か相通ずるのでしょう。舞台の上で相手に集中する、モノに集中する、聞 く、触る、何にしても集中する度合いが、意外な発見でしたけれども、演劇をやりたいと入ってきた子たちよりはと言ったらおかしいですが、たまたまですが、 体育界系のほうに意外に早く何か働きかけるということが多いのは東演だけではなく、そうかもしれない。ですから先ほど高校演劇からへんなものを身につけて くる…一般論としてはわたしたちも聞いてもいますし、へんなものを身につけてきますけれども、わたしのところで高校から来るというのは毎年1~2人ぐらい ですが、非常に若いだけに、変更がききます。逆に言いますと、無名の東演の養成所なんですが、他の養成所を卒業してくる人が意外と多いのです。しかたがな くて東演の養成所でも行ってみようか、というかんじでしょうか。その人たちが非常に技術変更するというか、誰かに働きかける、集中するということができな いし、自分の中で自分の技術論・技術ができてしまっている。いくつかの養成所を出、またはその劇団に入れなかった人たちのほうに非常に困ったというか、人 間はとてもいいし、情熱は持っているのですが、彼らの中にすぐっているものがとてつもないものなので、とにかくゼロからいくんだよ、一からやり直さない と、いま君らが持っているものは捨ててしまわないとだめだ、とやらせるのですが、ことばで言ってもしょうがないから、いろんなことをむちゃくちゃやらせま す。それであるところで「あぁこういうことか」とわかる瞬間があるのですが、結局また卒業公演になると自分の安住の地を求めて、自分が一番やりやすいよう にやっていって、描写の芝居をやってしまったり、自分の気持の中に閉じこもるような芝居で、相手とはまったく関係のない芝居をしてしまう人たちがどうも多 いのです。「行動の結果、人間の感情が生まれてくる」とスタニスラフスキーが言っているようなことだけをやっている。誰に何かを働きかけるという人間のア クティブな部分ですね。その日常彼らが生きているときにやっていることを、舞台の上でやらせるというか、肉体で知らしめるというところまでいくのでだいた い1年が終わってしまいます。

先ほど「持ち上がりシステムではないのですか」とありましたが、わたしのところも2年制なのですが、いまちょうど劇団で新人でがんばっている連中が何人 かいるのですが、この子たちがわたしが本科のときに担当して、ちょうどいまごろですよね、進路を相談に来るわけです。「専科に残ろうとおもうんですがどう ですか」という話があったり、「よその劇団を受けてみようとおもうんですがどうだろうか」と。それはもう自由で、できたら東演を希望してくれよという話が あるのですが、その7年前の子たちが「あなたが専科を引き続きやってくれるのなら残る」と全員が言うんですよね。もちろん1年間一緒にいるから気心も知れ て慣れ親しんでいるから、彼らがそう言うのはとてもわかるのですが、一方では、わたしの側からみても、1年間やってたいしたこともできないで、次の先生に バトンタッチするというのは、果たしてオレは彼らをどれほど理解できただろうか、彼らは今度は次の先生で同じようなことを言われても、ダメ出されても、言 いまわしが違ったりしますよね。だからもしかしたら2年生の学級だから、わたしも彼らが脅迫してきたついでに、経営部のほうに持ち上がりシステムにしてみ ようといって、そこから始めてみたら、やはり人をみるということですね。わたしもなんとなく漠然とわかっていて、もう1年続けてこの子たちをもうちょっと 理解し合えば、何か行動ということ、それから感情ということを含めて伝えられるし、彼らのことも僕は理解できる。わたしは東演の演出もしていて彼らがその まま劇団に入ってくれたらなんとか…というような理想を描いていて、それがいまのところずっと持ち上がりシステムを使っています。たった2年で一日おきで すからね、365日あるのに半年もレッスンもない、だからよけいに持ち上がりシステムというところは、楽しいのではないかなとおもいます。

大学はよくわかりませんけれども、ただ俳優を育てるということではやはりそういった形を生徒は望んでいるのではないでしょうか。

わたしの友人がロシアで演出家になっているのですが、ある演劇大学のコーウェントという1級の演出家であると同時に1級の演劇教育者だそうです。わたし は会ったことはないのですが、彼の卒業公演だけは観ました。これがセリフのないゴーゴリのバリエーションをつかった芝居で、ゴーゴリの世界というか、エ チュードみたいなものを取り入れたものでしたが、なんとまぁすばらしい。それがみんな目が生き生きしていて、関係性がはっきりしていて。彼が4年生まで 持ったらまた1年にもどるわけですが、そのときに受験生が殺到するというんですね。だから本来どの先生につきたいのかということと、専門の俳優それから専 門の知識者を育てるときには必要なのではないかとおもいます。

日本で国立の演劇大学がないというのは非常に残念だし、できそうでできない。二国のときにそういう話がありました。それと生徒たちを教える先生という か、演劇の技術を含めて、演劇でも何でもですが、その先生たちを養成する機関がありません。少し欲張りすぎですがそんなことをいま話しているところです。

ただわたしたちは劇団の俳優であり、たまたまそれこそ板付きの演出家の演出助手を長年つとめてみたりしているなかで、先生になってみたり、演出家になっ てみたりしていくというか、どこか徒弟制のところはこういう仕事はあるとおもうのですけれども、これはまた別な話になってしまいますけれども、「教育者」 を育てる、「研究者」を育てるという先生がいません。

だから何か舌足らずで気持ばかり何をお話したかわからなくなってしまったかもしれませんが、いろんなエチュードやりますよ。毎日欠かさずやるのはいくつ かあります。注意の件のとにかく聞くということ、床をさする音を背中合わせで座ってどの場所でどういうことを相手はしたかとかね。つまり集中力を身につけ る作業だけを、極端に言えば行動と集中、リラックスを含めた行動だけを東演の養成所でわたしはやていて、なんとかかたわになってやっているのかもしれませ んが、劇団の中堅で担ってがんばってやってくれているのがだいたいその程度の勉強をした人たちです。非常に実は養成所であると同時にあまりたくさんのこと をゆき足らない俳優になってしまっているのかもしれませんが、だから踊りのある芝居の場合は特訓がすごいわけですよね。だから日本の環境がどういうふうに 整っていて、整っていなのいかというのがある。ただそこの俳優になくてはならない、何か外面的な技術なんかではない、魂のというか心の演技というんです か、内面的な演技をどうやったら身につけられるかということは、まさにいろいろな方法も相談もし、試みています。その結果、いろいろなプラスの面が出てく るのではないかとおもいます。

わたしも話をするのは好きではありませんし、ただ現場労働者という視点で若者たちと闘っています。また生徒たちともいろいろな談話をしたりするなかで、おたがいに理解し合えるというか、何かそんなふうな歪な養成所のとりとめのないお話をしました。
(2000年1月30日、日本演劇学会「演劇と教育」研究会シンポジウム「高等教育における演劇」にて報告。)