演劇教育とメイエルホリド(明治大学 武田清)

2021年にサイトの引っ越しをしている際に発見されたものです。2000年7月に書かれたものです。掲載に問題あれば御連絡ください。また、一部の表記等に見づらい点がありますが、現時点ではご了承いただければと思います。(花家)

1.メイエルホリドについて簡単な紹介

1874年ペンザ(モスクワ南東約800キロ)生まれ。ドイツ系移民の子。後にロシア正教に改宗し、フセヴォロート・エミーリエヴィチとロシア名を名乗った。1895年、モスクワ大学法学部へ入学するが、翌年ネミローヴィチ=ダンチェンコの指導するモスクワ・フィルハーモニー協会附属演劇学校の二回生に編入、後のチェーホフ夫人オリガ・クニッペルと共に銀メダルを授与されて、1898年に卒業した。
同年、モスクワ芸術座の創設に当たって、ダンチェンコ、クニッペルらと共に参加、このシーズン、「かもめ」のトレープレフ、ハウプトマン作「寂しき人々」のヨハネスなど10役を演じた。感性鋭い、知的な役作りをする俳優だったと伝えられる。
1902年、さまざまな理由からモスクワ芸術座をコシェヴェーロフと共に退団、新しいドラマの会を設立した。モスクワ芸術座の4シーズンに演じた役は合計で18を数えた。
新しいドラマの会は、ウクライナ、グルジヤなどで3シーズン、140本を越える上演を行っている。特にモスクワ芸術座の初演の三週間後に自身の演出で「桜の園」を上演、トロフィーモフを演じた。
1905年、スタニスラフスキーにモスクワに呼び戻され、若手俳優と演劇スタジオを任され、象徴主義戯曲の上演の可能性を探る実験に取り掛かった。プラ
イヴェートな上演に終わり、公開されなかったが、メーテルランクの「タンタジールの死」、ハウプトマンの「シュリュックとヤウ」、プシビシェフスキの「雪」、イプセンの「愛の喜劇」を準備していた。
このスタジオで、メイエルホリドはスチリザーツィヤ(様式化)とウスローブノスチ(約束性)による演出の実験を試みていた。リアリズム演劇からの離脱を図っていたのである。
1906年、ぺテルブルグのコミッサルジェフスカヤに招かれ、俳優兼演出家として契約、第一回公演でイプセンの「ヘッダ・ガーブラー」、メーテルランクの「尼僧ベアトリス」を演出。特に後者はロシアにおける象徴主義戯曲上演の最初の成功とされている。第二回公演では、ブロークの「見世物小屋」を演出、その舞台機構剥き出しのシアトリカリズムが大きな注目を集めた(騒ぎも引き起こした)が、女優との不和のきっかけともなった。翌1907年、シーズン途中で
解雇された。
1908年、ぺテルブルグの帝室劇場支配人に招かれ、オペラの演出(マリインスキー劇場)、とドラマの演出と演技(アレクサンドリンスキー劇場)という内容で契約する。以後、ロシア革命の勃発によって中断を余儀なくされるまで、その地位に留まった。この間、親劇場の仕事終了後、ドクトル・ダペルトゥットと名乗って、二重生活を送った。芸術キャバレー「入江」、「野良犬」の演出を手伝う一方、1913年からは演劇スタジオを開設し、若手俳優を集めて、教育、実験に携わった。後、ロシア革命後に開発を宣言したビオメハニカの基礎を成す、俳優訓練のエチュードの大半はこのスタジオで開発、形成したものである。
1913年にはイーダ・ルービンシテインの依頼で、パリのシャトレ座でダヌンツィオの「ピサネル」を演出(装置バクスト、振付フォーキン)して好評を博し、また1914年には映画オスカー・ワイルド原作「ドリアン・グレイの肖像」を製作している(フィルムは現存せず)。
1917年2月、レールモントフの「仮面舞踏会」を上演中にロシア革命を迎える。11月(ロシア暦10月)十月革命が勃発、ロシアの全劇場は国家教育委員会芸術局の管轄下に置かれることになった。12月、ルナチャールスキーの呼びかけに応じてぺトログラード芸術家・文学者会議にブローク、マヤコフスキーらと共に参加、翌1918年夏にはロシア共産党ボリシェヴィキに入党した。一時、白衛軍に逮捕され、4ヶ月間投獄されていた。
1920年、ルナチャールスキーにモスクワに呼び戻され、教育人民委員会演劇局の指導者に任命されると、“演劇の十月”をスローガンに掲げて、アジプロ演劇の創造に着手し、革命的演劇の旗手と目されるようになった。また、折から巻き起こったアマチュア演劇運動の中心的人物となって、多くの摸倣者を作ることになった。この間、1918年にはマヤコフスキーの「ミステリヤ・ブッフ」を、1920年にはヴェラーレンの「曙」を演出している。
1921年秋、国立高等演劇工房の指導者に任命され(別名自由アトリエ)、再び若手俳優の指導に携わることになった。この時の生徒の中に、後の映画監督エイゼンシテインがいた。
1922年4月、クロムランクの「堂々たるコキュ」をビオメハニカを用いて演出、論争を巻き起こした。6月、ビオメハニカのエチュードを初公開、10月、メイエルホリド・システムを実演してみせた。自身の劇場のみならず、革命劇場(後に土方与志が在籍して研究生となる劇場)の芸術監督に就任し、一方国立演劇芸術学校の全権を掌握、その中に独立したメイエルホリド工房を作った。
1923年、ルナチャールスキーが古典復帰芸術政策“オストロフスキーへ帰れ”を提唱すると、ロシア古典のビオメハニカを使った演出を手がけ始める。
1923年、オストロフスキーの「実入りのよい地位」、1924年、同「森林」、1926年、ゴーゴリの「検察官」、1928年、グリボエードフの「知恵の悲しみ」などを演出した。
1929年「南京虫」、1930年「風呂」と立て続けにマヤコフスキーの戯曲を上演して、ソビエト政府の政策を痛烈に諷刺したため、党幹部との対立色を強めて行った。1933年のゲルマン作「序曲」を上演した後、一切ソビエト戯曲は上演ができなくなった。しかたなく、メイエルホリドは過去の作品の再演や、「椿姫」などの外国戯曲、および「スペードの女王」などのオペラ演出を手がけることになった。
1934年秋、モスクワで第一回ソビエト作家大会が開催され、基本的創作方法として社会主義リアリズムが承認されたが、メイエルホリドは頑としてこれを一切認めず、反対に自らの創造方法にフォルマリズムというレッテルを貼られることを断固拒否した。ために、ソ連党政府との対立は修復が不可能なものとなった。彼の演劇創造をこれまで支持してきた党幹部、トロツキーやブハーリンは、既に国外追放になるか粛清裁判にかけられていた。
1938年1月、メイエルホリド劇場の閉鎖が決定され、劇団員たちは他の劇場に移された.メイエルホリドの命運も尽きたかに思われたが、3月スタニスラフスキーが彼のオペラ劇場の演出助手に招き(後に演出家に)、次いでオペラ・スタジオの教師となった。
同年8月、スタニスラフスキーが死亡し、後ろ盾を完全に失ったが、後数ヶ月間メイエルホリドはオペラ劇場の演出家とスタジオの教師を続けられた。スタニスラフスキーは「メイエルホリドをよろしく頼む。彼は私たちの劇場、いや演劇そのものにおける私の唯一の後継者だ。」と遺言した。
1939年6月、芸術問題委員会は全ソビエト演出家会議を招集、メイエルホリドに自己批判をを求めたが、彼は頑として自らの非を認めず、逆に社会主義リアリズム政策の誤りを指弾したと伝えられる。6月20日レニングラードのアパートで逮捕され、以後完全に姿を消した。彼の妻ジナイーダ・ライフは7月14日、アパートで何者かに惨殺された。逮捕後、メイエルホリドの名は公式文書や事典類から一切削除され、この世に存在しなかったものとされた。
1953年のスターリンの死後、1955年に名誉回復が申し立てられて認められた。が、その後に判明したことは、メイエルホリドはNKVD(内務人民委員部)による拷問を伴う過酷な取調べによって虚偽の自白を強制されていたことであった。後に発見された起訴状と判決によれば、メイエルホリドはトロツキストとして破壊活動を企て、またイギリスと日本の諜報機関の手先となってスパイ活動を行っていた罪をでっち上げられ、1940年2月に国家反逆罪とスパイ罪
で最高刑の銃殺に処せられていたのである。

2.メイエルホリドとスタニスラフスキーの演劇観の相違

スタニスラフスキーの、俳優の心理面、精神的準備の技術の過程を重視するいわゆるスタニスラフスキー・システム(ただし、彼自身はシステムという呼び方をしたことはなかった)とメイエルホリドの、俳優が身体表現能力を最高度に発揮することを要求するビオメハニカとは、従来、相対立する正反対の演技創造システムであると、あるいはあるかのように捉えられてきた。つまり、スタニスラフスキーは内から外へ、であり、メイエルホリドは外から内へ、であるというように。その相違は、果たして本当なのだろうか?
この疑問に答えるには、先にも引いたスタニスラフスキーの遺言「彼は演劇そのものにおける私の唯一の後継者だ」という言葉の真の意味と、メイエルホリドが追究した演劇はどんなスタイルの演劇だったのか、そして晩年は社会主義リアリズムのお手本のように受け取られたスタニスラフスキーの演劇の捉え方は正しいのか、を検証してみる必要があろう。
まず、スタニスラフスキーはチェーホフの死後、心理的リアリズムの演技と自然主義的な演出による演劇創造から離れ、新たな演劇創造の道を模索した演出家であったことを認める必要がある。そのことは1905年に、メイエルホリドをわざわざ招いて演劇スタジオの指揮を任せ(ダンチェンコの執拗な反対があった)、象徴主義戯曲上演の可能性を実験させたことに明らかに読み取られる。だが、スタニスラフスキー自身は演劇の様式としてリアリズムを選び取った演出家であって、様々な実験を行った後、リアリズム演劇に戻ってきた。
一方、メイエルホリドは演劇スタジオを任される以前から、演劇様式としてのリアリズムから完全に離脱していた演出家である。彼は、近代演劇の根幹となったリアリズムを超えて、近代以前に範を求めた。コメディア・デラルテに代表される民衆演劇の様式をヨーロッパのみならず東洋(日本や中国)にも求め、そこからより演劇的(シアトリカル)な演劇を創造するための手がかりを得ていた。彼が歌舞伎や(もっとも、貞奴や花子の演技を通してではあったが)京劇に多大の関心を抱いていたのはそのような理由によるものであった。
理想とする演劇様式がこれほどまでに異なった二人の演出家を同じ平面で比較するのは、本来非常に困難なことではなかろうか。それにもかかわらず、二人がお互いの才能と力量とを認め合い、ことにメイエルホリドは最後までスタニスラフスキーに対する敬意を失わなかったという事実は、もっと別な事柄を意味しているように思われる。
つまり、様式が異なっても演劇の演劇たる本質、俳優の演技は全く別物ではありえないということではなかろうか。本当に優れた俳優は、様式を異にする演劇の舞台でも立派に仕事ができるし、また見事な演技を見せてくれるものではないのか。歌舞伎役者がミュージカルでも成功しているのはその証拠ではなかろうか。
メイエルホリドは決して俳優の身体の運動能力、表現能力ばかりを重要視した演出家ではなかったし、またスタニスラフスキーは俳優の心理的な準備段階ばかりを重要視した演出家でもなかった。そのことは、戦後に翻訳された後者の『身体的行動』に見られる演技へのアプローチに如実に読み取られることである。両者は、どちらも俳優における心理と身振り(動作)との乖離という難問をいかにして解決するかという問題を終生にわたって追究した演劇人であったと思われる。
ここでは、メイエルホリドがロシア革命後に開発したと宣言したビオメハニカ、実は革命前にそのコアになる部分は既に完成していた、俳優訓練・演技創造システムに焦点を当てて、今日の演劇教育を考える上でわれわれに再考を迫るかに思われる主題を取り上げようと思う。それは、アンプルア・アクチョーラという俳優の演技訓練(英語で言えば、actor’s set role 、仏語で言えば、emploi)である。これを、メイエルホリドはコメディア・デラルテ研究から学び取ったのであった。演劇をリアリズムから解放して、演劇本来の魅力や楽しみを取り戻すには、演劇が本来それを持っていた時代の演劇に一度立ち戻ってみる必要があると、彼は考えたのである。

3. 演劇にとって演劇的とはどういうことか

スタニスラフスキーにとって“演劇性”は否定的な考え方であったが、メイエルホリドは演劇にとって演劇的とはどういうことかを絶えず考え続け、追究した。彼はあらゆる演劇様式に対抗し得る様式を演技システムとして求めた。例えば、彼にとってチェーホフ戯曲の魅力は、その生活への真実さではなかったのである。
メイエルホリドは、スタニスラフスキーのナチュラリスティックな演出を拒否はしたが、スタニスラフスキーの演技の原則、「舞台の行動はすべて正当化され、動機付けられねばならず、登場人物は一人一人目的を持っていなければならない」を常に守ったと言われる。だが、その準備に彼は、登場人物の心理を考えるだけでなく、舞台空間における俳優の身体のポジションを決定する技術的手段の蓄えを大きくすることを彼の俳優たちに求めた。メイエルホリド俳優の一人、イーゴリ・イリインスキーが語ったように、「身体のフォルムが正しければ、役の土台、台詞の抑揚と情緒もまた同じく正しいだろう。なぜなら、それらは身体のポジションによって決定されるから」なのである。
したがって、メイエルホリドにとって俳優訓練とは、大部分、舞台空間における身体のポジションと運動とを理解することであった。どこに立って、どの姿勢で、どの足が主で、重心はどこにあり、顔はどちらを向き、どっちにどう動くか。そういうディテイルに対する注意と理解が感性をも発達させると考えたのである。彼は、そのための訓練として、革命前はコメディア・デラルテの類型的人物たちを“仮面”と捉えて実験したのである。
コメディア・デラルテの人物たちの性格描写は、個性の際立った動きと身振りのパターンを持っていた。アルレッキーノ、コロンビーナ、ピエロ、パンタローネなどの人物たちに扮した演技者たちは、仮面を着け、その特徴的な動きに注意を集中させるが、仮面はその人物に特有の態度や精神状態を表面に固定させるのである。そして、その動作は固有の二つのリズム、テンポのリズムと空間のリズムとを持っていた。生徒の俳優たちは、そのリズムに従い、様々に即興しながら身体の敏捷さと舞台上の相手に対する身体の反応力を発達させた。
コメディア・デラルテの様式的な演技の本質の探究は、ヨーロッパだけでなくアジアの他の演劇伝統の更なる調査研究へとつながっていった。
ロシア革命後、イタリア喜劇の伝統的な仮面を用いる方式に代わって、“社会的仮面”と呼ばれることになる新しい考え方が開発された。これが、アンプルア・アクチョーラと呼ばれた俳優の役柄である。古典戯曲だけでなく近代の戯曲も、その登場人物たちは、俳優から見れば幾つかのパターンの役柄に還元できるとメイエルホリドは考えたのである。
そのことを、ロバート・リーチは次のように要約している。
「これは仮面の境界を、“現実生活”と呼べるようなものへ新しい方法で関係付けることで拡大した。メイエルホリドの俳優たちは、観客へ演劇化された“仮面”を示すよう求められたのである。(中略)だが、役柄をいかに表現するかは、心理的でもなく演出の様式的な特殊性でもなかった。むしろ役柄(アンプルア)は、上演のある特別な時点での、明確なイメージを動かしている力を提示することであり、また明確な動機(スタニスラフスキーの用語で言うところの“目
標”)と人間関係の状態の双方を演劇化することであった。」
メイエルホリドはこの訓練を、革命前の、エクササイズ―エチュード―パントマイムのシークウェンスから、革命後、エクササイズ―エチュード―アクティングのそれに発展させた。エクササイズを組み合わせた、各々15分程度のエチュードを繰り返し訓練することで、俳優は舞台上での身体感覚と表現力を飛躍的に発達させることができたのである。
前に出てきたイリインスキーはその効果を次のように述べている、「エクササイズは、舞台上での意識的な運動という特質をわれわれに与えた。それは体操や造形やアクロバットと結びついた。それらは、生徒の中の正確な“眼”に発展した。運動を計算し、それを意味あるものし、パートナーと共有するものにすることができた。そして“眼”は、生徒が舞台のあるべき場所でもっと自由に、非常な表現性をもって動けるようにしてくれたのである。」
だから、ビオメハニカは曖昧でもなければ、秘密があるわけでもない。ビオメハニカは俳優に次のことを要求しつつ鍛えるのである。(1)バランスをとること(身体のコントロール)(2)リズム意識(空間とテンポの両面での)(3)パートナー、観客、その他の外部刺激に対する感応力(特に、見、聞き、反応する能力を通して)

4. アンプルア・アクチョーラの一覧表(男女各々17種類ある)からの抜粋


(1) 男性と女性の別 (2)役の実例 (3)演劇的機能

・ 第一のヒーロー

  1. 並よりもずっと背が高く、長い脚。顔に2タイプあって、広い場合(モチャーロフ、サルヴィーニ)と狭い場合(アーヴィング)。頭の大きさは並が望ましい。首は長く丸みがあること。肩幅が広く、ウェストとヒップの線は平均的。手と手首に大きな表現力があること。目は大きく、特に幅が広く、なるべく瞳の色が明るいこと。声はぐっと力強く、音質、音域が豊かであること。バスに近いバリトンの声質。
  2. オイディプース、カール・モール、オセロー、マクベス、ブルータス、ボリス・ゴドゥノーフなど
  3. パトスの面での悲劇的障害を克服すること(不条理性)

・ 第一の恋人(男性)

  1. 背の高さは並で、脚が長い。目と口が表現力に富む。声は多分高く、テノール。太りすぎていないこと。
  2. ロミオ、モルチャーリン、カラフなど
  3. 抒情的な面での恋の障害を積極的に克服すること

・ 第二の問題を起こす者(男性)

  1. かなり太りすぎでも許されるし、身体のプロポーションが貧弱でもよい。物真似の要求の方が高い。普通でない声の音色ができればほしい。
  2. エピホードフ、サンチョ・パンザ、フィルス、チェブトゥイキン、スガナレル、レポレッロなど
  3. 自分でしでかしたのではない障害と戯れる

・ 第一のヒロイン

  1. 背丈は並よりも高く、長い脚、頭は小さく、手首の表現力に非常に優れる。アーモンド型の大きな目。顔に2タイプあって、ドゥーゼとサラ・ベルナール。長くて丸みのある首。腰の幅は肩幅を大きく越えてはならない。非常に力強く、音域の広い声で、会話のピッチが音色豊かなコントラルトが望ましい。
  2. トゥーランドット(シラーの)、エレクトラ(ソポクレスの)、クレオパトラ、フェードラ、ジャンヌ・ダルク、ハムレット(サラ・ベルナールの)など
  3. パトスの面での悲劇的障害を克服すること(不条理性)

・ 女の悪党・陰謀家

  1. 音域が広く、力強い低い声。並よりも背丈が高いこと。大きくてよく動く目(斜視でも構わない)。極度にやせていて快活なのでも構わない。
  2. リーガン、クリュタムネストラ、ヘロディアスなど
  3. 自分で作り出した破局的な障害とともに演じる

・ 第一の恋する若い娘

  1. ほぼ並の背丈で、衣服を着替えると脚が長い。表現豊かな目と口。声は高くて(ソプラノ)よい。胸は大きすぎないこと。
  2. デズデモーナ、ジュリエット、オフィーリア、ジュリア(オストロフスキー)、ニーナ(「仮面舞踏会」)
  3. 抒情的な面での愛の障害を積極的に克服すること

・ 年配の婦人

  1. 太りすぎていてもよい。なるべく低い声で、なるべくなら背丈が高いこと。
  2. フレストーワ、エカテリーナ女帝(「大尉の娘」)、オグローワ(「持参金のない娘」)、身分の高い夫人、ある種の女王
  3. 道徳的規範を持ち出すことで、劇的行動を意図的に速めること。

5. 革命前の13のエチュード

(1) 弓矢を射る (2) 石を投げる (3) 平手打ち (4) 短剣で刺す (5) ピラミッドを造る (6) 足で一撃
(7) 胸に飛び乗る (8) 倒れる (9) 馬と騎手 (10) つまずく (11) 袋を運ぶ (12) 背中(相手の)から飛び降りる
(13) 輪

(2000年7月30日、日本演劇学会「演劇と教育」研究会にて報告。)