人間形成のための総合学習における演劇的表現の学習理論 -初等教育・中等教育での実践的学習理論- (松尾忠雄)

2021年にサイトの引っ越しをしている際に発見されたものです。2000年7月に書かれたものです。掲載に問題あればご連絡ください。また、一部の表記等に見づらい点がありますが、現段階ではご了承いただければと思います。(花家)

1 実践的学習理論にたどりつくまで

A 実践的学習理論に触れる前
B この学習理論形成のきっかけとなった体験について

2 演劇的表現の実践的学習理論:初等教育段階を例にとって実録風に

  1. 気づく段階
  2. 自分の問題として考えはじめる段階
  3. 自分の問題にするために、他者になってみる段階
  4. 他者の問題として、客観的な資料の収集、調査・研究に入る段階
  5. 他者の問題として考えてきたものを、その他者を自分の中に受け入れて、再び自分の問題として考え、自己表現をする。その自己表現・自己実現に達成感を持たせる段階
  6. まとめ:人間形成のための、総合学習における学習理論

3 具体的実践案

A 中学校の場合の一つの例

B 高校の場合の一つの例

4 結びにかえて

「人間形成のための」と冒頭に特記せざるを得ない現代の社会状況を、初等教育、中等教育に視点を当てつつ、先ず始めに述べておきたい。
平成8年7月に文部省が発表した第15期中央教育審議会答申の中に「今後における教育の在り方として、[ゆとり]の中で、子供たちに[生きる力]をはぐくんでいくことが基本であると考えた。そして、[生きる力]は、学校・家庭・地域社会が相互に連携しつつ、社会全体ではぐくんでいくものであり、その育成は、大人一人一人が、社会のあらゆる場で取り組んでいくべき課題であると考えた」とある。また同じく文部省が平成10年7月に発表した教育課程審議会答申の中では「教育課程の基準の改善のねらい」の「2」項に「自ら学び、自ら考える力を育成すること」と言い、その実現を図る学習として「総合的な学習の時間」を設けた。この「総合的な学習の時間」のねらいとして「各学校の創意工夫を生かした横断的・総合的な学習や児童生徒の興味・関心等に基づく学習などを通じて、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることである」を挙げている。更に学習活動として「地域や学校の実態に応じ、各学校が創意工夫を十分発揮して展開するものであり、具体的な学習活動としては、例えば国際理解、情報、環境、福祉、健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる」また続けて「自然体験やボランティアなどの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習が積極的に展開することが望まれる」とも述べている。
今後の教育の在り方として、こういうことを重点的に取り上げようとしている背景には、現代の社会状況、その中で生きている人間の状況がある。急速な社会状況の変化が、危機的とも言うべき人間を作り出していると言えよう。機械文明の急速な展開、情報化社会状況の現出、テレビ、ゲーム機等の日常化、それらは「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)」の世界を現出した。これらを相手にしている限り、人間は、煩わしい相手の人間と顔を合わせて話を交わさなくてもすむ。かくして人間相互の距離は遠ざかっていく。テレビやゲーム機を前にして、仮想現実の世界で、人間は自由自在に自分だけの世界に遊ぶことができる。そして、人間関係の煩わしさから回避できるメディアが外にも登場してきた。携帯電話である。例えば登校途中の電車の中で、携帯電話のメールを、黙ってじっと見つめている高校生や大学生を見ていると、不気味ですらある。少子化現象の中で子供たちの多くは、いや、大人たちの多くも既に人間関係の形成は不得手である。世の中のいろいろなものの猛烈なスピードアップは機械文明の進歩のおかげである。今、われわれ人間は、その恩恵にあずかっている。だが、自らが自分の力で考えるこということを放棄して、瞬間の感性に拠りかかって生きる人間が増えてきたという現象と、社会状況の変化とは決して無縁ではない。普遍的で、確固たる、不動の、総ての人間がそれを信じて生きていけるもの、普遍的真理といったものを、人間が自ら拒否してきた今、数多く見られる犯罪に、社会の歪みが、象徴的・拡大的に見られるのは、蓋し当然であろうか。「つい、きれてかっとなってやった。誰でもよかった」と殺人犯は言う。人間関係は希薄である。自ら思考することができない。感性のおもむくままに、瞬間的に犯罪を犯す。他を思いやり、他を理解する能力も習慣もない。
それに、猛烈なスピードで進歩する機械文明、情報化社会、大衆社会化状況の中で、教育は、その社会の変化についていくために、受容型の人間を育ててきた。自ら考えることより、理解することに重点を置いてきた。人間は、自分の力で、自分の責任で、時間をかけて考え、行動するということを止めてしまった。
「何もしてくれない」と、他の責任を責めることは、日常茶飯事であるが、自らの責任など考えてもみない。当然のように責任転化する。人間相互の関係が希薄であることは、既に指摘されているが、寧ろ一人一人の個人そのものの中味が、希薄なのである。
今、初等教育及び中等教育に課せられているものは、大きく重い。中央教育審議会答申や教育課程審議会答申は、それに応えようとしている。今、中等教育審議会答申や教育課程審議会答申を批判することは容易である。また、必要でもある。しかし、一方で、それを実践に移し、その実践を重ねることによって、現代社会が要請している人間形成のための教育問題への解決に一歩でも踏み出そうとすることは、実に重要である。そして、その実践のためには、我々、学校・家庭・地域社会に課せられた責任がある。事実、中教審答申では、「学校・家庭・地域社会の連携」を求めている。
ではどうすればよいのか。ここに、人間形成のための一つの方法、実践的教育論を提示したい。

1 実践的学習理論にたどりつくまで

A 実践的学習理論に触れる前に

「総合的な学習の時間」を、今、多くは省略した形で「総合学習」と呼称している。「総合学習」も正式な呼称と、
一応考えておく。尤も、各学校で、この「総合的な学習の時間」に、その学校の独特の名称を付けることは、その学校独自の学習内容を伴って寧ろ望ましいことと考えられるのではないか。
「総合学習」の教育課程の中での位置を説明しておく。初等教育(小学校)でも中等教育(中学校・高等学校)でも、教育課程はいくつかの領域で成り立っている。例えば初等教育、及び前期中等教育(中学校)では、「教科」、「道徳」、「特別活動」の三つの領域に、今度、2002年完全実施の教育課程では、「総合的な学習の時間」つまり「総合学習」が新たな領域として加わったのである。2003年完全実施の後期中等教育(高等学校)では、「道徳」の領域はな
くて、「教科」、「特別活動」、「総合学習」の三領域で構成されることになった。
次に「演劇的表現の学習理論」の「演劇的表現」なる言葉について、松尾自身の考えを述べておく。それは、決して「劇表現」とイコ-ルとは考えていない。
「劇表現」は、即興にしろ言葉または言葉に代わる身体表現があって(つまり脚本、台本またはそれに代わるものがあって)、それを上演するする人がいて、舞台又は舞台に代わる場があって、そこで上演される表現を言う。この「劇表現」も含めて、学習者がことば又は身体等で表現する行為の持っている意義を、「その表現者の得られる教育的意義、学習上の意義」の視点からみて名づけたものである。まだ教育学上のテクニカルタームとしては、未熟なものであり、今後考えを詰めていきたい。それがどんなものか、それは本論の一部なので、後述する。

B この学習理論形成のきっかけとなった体験について

この理論を思いつくきっかけとなった、松尾自身の体験について略述しておきたい。それは、中・高校教諭時代、演
劇部の活動での顧問としての松尾の体験であった。部員は中・高合わせて数十人はいる。彼女たち(中・高一貫の女子校)の最大の情熱を注ぐ舞台は、4月の文化祭である。千人余りの観客が熱狂する舞台になる。もちろん中・高生一緒に一つの舞台をつくる。脚本は高校2年生。多くは有名作品の脚色であった。演出以下のスタッフも高校2年生、オーディションも高校2年生、すべて生徒の手作りである。松尾はスタッフの一員、装置を作る大工仕事をしていた。高校2年生たちは、だいたい2学期に入るとその文化祭の準備にかかっていた。オーデイションが12月頃。稽古に入るのは、3学期、1月である。文化祭は4月末。裏方に徹して高校3年生になったばかりの彼女たちは、フィナーレだけは、舞台に出て、後輩から花束をもらって涙、涙で幕が降りて、それで引退する。松尾の在職中は、文化祭が終りの、講堂での全校集会では、文化祭の総てをし切り推進して来た生徒会幹部は、全校生の前で涙にくれながら、文化祭終了、引退の挨拶をする。下級生たちも感激する。しかし、今はかなり冷めていると聞く。時代である。この後、中学生たち、まず1年生の初登場舞台、これを支えるスタッフは中学2年生、脚本もオーディションも演出も裏方も中学2年生である。その後、中学生全員が舞台をつくって校内で発表する。この脚本は、中学3年生が担当した。
これも脚色が多かった。オーディションもスタッフも中学3年生。そして高校生は、といっても1・2生であるが、コンクールに出場する。
このコンクールで体験したことが、「演劇的表現」の学習理論を考えつくきっかけになった。来年3月で定年という顧問としての最後の年、今まで部員に合わせて松尾が脚本を書いてコンクールに出場していたが、今年は脚本を書かずに高校1、2年生(3年生は4月の文化祭で引退している)、みんなで一緒になって舞台を創らせてみようと考えた。脚本もみんな一緒になって創らせようと考えた。

7月下旬の演劇部合宿で、みんなでどんな話にしようかを話し合った。話は大体決った。大まかなストーリーは決った。細部は稽古の中で決めていくことにした。せりふは、何一つ決めていない。

登場人物を決めた。部員は全部舞台に出る。女子校である。舞台に立ちたいから演劇部に入部している。舞台に出られるから、スタッフの仕事もするのである。但し配役は決めなかった。

稽古に入った。配役は決めなかった。その都度、役を取り替えて稽古を続けた。夏休みであるから、1日に3、4回は、稽古を繰り返せる。その都度役を取り替えた。

せりふは全く決っていない。場面があるだけである。場面と役を考えて、相手の投げかけてくることばにことばを返していく。今、その役を演じて、ことばを発しているのを、その瞬間、他の部員たちは見ている、わたしならこう言おうと思いつつ。最後までせりふを固定しない。その役を演じている時の自分のことばでドラマをつくっていこう、これが最初からの約束であった。つまり、部員たちは、その役の自己自身を演じることになるのである。

だんだんストーリーの細部まで決ってくると、松尾は、「この場面は、全体の中でこんな役割をになっている」、例えば、「ここは状況設定の場面である。登場人物と何が起こっているのかを観客に知らせる場面である」とか、「この場面では、後の展開のために、これだけは、話を売っておこう」などと、ドラマツルギーの角度からの注文はやかましく出した。実際に稽古をしてみると、その場でその役がこれだけは言わなければならないせりふをしばしばその役が忘れることがあった。すると、その都度、何時でも誰かが、自分の役のせりふで、その場で言わなければならないことばを補って、その場を取り繕っていた。その都度、松尾は、彼女たちの顔を見て、にやっと笑っておいた、意図的に。すると、彼女たちは、次第にドラマツルギー上、その場で必要なことは忘れなくなっていった。

7月下旬の合宿での話し合いから始まって、8月、そして9月中旬まで、役を決めなかった。9月中旬にやっと配役を決めた。ここから1か月ばかり、殆ど稽古が出来ずに、そのままコンクールに突入する。配役を決め、せりふを録音した。松尾が録音テープを起し、脚本として文字化し、コンクールの審査のために提出した。それまで、一切記録していなかった。この脚本は部員たちにも渡したが、彼女たちは、最後まで一切この脚本に頼らなかった。大体せりふは固定してきてはいたが、最後までせりふが同じという舞台はなかった。ところで稽古の出来ない事情であるが、10月上旬に体育大会(体育祭と一般には言っている)、その練習に9月中旬から入る。5、6時間目は、全校生がグランドに集合して、体育の授業として、体育大会の団体競技の練習を行なう。学校としては、放課後は自由、部活動をしてよいことになっているのだが、生徒たちは体育大会の個人競技の練習に打ちこむ。高校3年生の目が光っているので、部活も帰宅もままならない。体育大会が終ると、やがて中間考査、その1週間前からは部活禁止にしていた。中間考査の終りの頃からコンクールが始まる。従って、9月中旬から、稽古が出来ないことになる。実際は、部員たちは、全員揃わなくっても、というよりごく小人数でも、こっそりと舞台に集まって稽古をしていたようである。稽古するとともに、ドラマのこの部分どうしよう、ここはこう考えようなどと話し合っていたらしい。

コンクールで創作脚本賞を貰った。部員たちは、どの脚本が創作脚本賞なんやろね、と笑っていた。

2 演劇的表現の実践的学習理論

初等教育段階を例にとって実録風に

児童、生徒たちは、今、ひとつの事態を目の前にしている、と考えることにする。或はひとつの事態に直面している、と考えることにする。そのひとつの事態は、先生から提示されたものの場合もある。地域社会が提供してくれたものの場合もある。
生徒たちが探してきたものの場合もある。以下、松尾が「仮に」と考えた例を挙げてみる。これが「総合学習」のすべてでは決してない。
ひとつの事態とは、例えば何なのか。
それが初等教育段階(小学生3年生以上)の場合(勿論中学生でも高校生でもよいが)、例えば、母親が毎日のように自分にうるさく言うことで、気になる、又は気にさわることばがある。言われることできれそうになる時がある。母親はなぜこんなことを言うのだろうかと考えていて「あっ、こんな時、みんなどう考えているのか、どう対応しているのか、また、どうしたらよいのか、ひとつ聞いてみよう」と思った。つまり、児童・生徒たちの平凡な日常生活の中から、考えてみたい「自分」の問題を見つけたのである。「気づいた」のである。以下、後で必要なってくるので、多少横道に逸れる。
中学生の場合(勿論小学生でも高校生でもよいが)、自分たちの住んでいる地域の歴史的な資料を友達が家の書棚の中から見つけてきた。例えば、そこにはその地域の昔の人(つまり自分たちの祖先)の具体的な生活の様子が詳しくを書いてある珍しい資料である。そこに書いてあることは、彼女には想像に絶する、祖先の昔の生活である。「昔の人達って、なぜこんな生活をしなければならないの?」、彼女は、不審に思い、調べてみようと思った。ここには、自分たちの取り上げなければならない問題があると「気づいた」のである。
高校生の場合、その地域で話題になっている文化芸術的な催しがあった(例えばその地域の劇場でも公演され、全国的にも話題になった作品のビデオテープが手に入った)。そして、その舞台を、又は、ビデオテープを見た。そしてその作品が彼らの中で結構話題になった。「うん、この作品について、いろいろな角度から取り上げて、大学生みたいに論文など書いてみよう。そうだ、この作品の作者は我々の近く人だ。作者に会って話を聞いてみるか。国語の教科書にも彼の作品がよく出てくるし」、と大いに興味・関心を持った。やる気になった。
では、本論に入る。「気づく」とはどういうことか。どうして気づかせるのか。上記、小学校の児童の場合を例にとって考えてみる。
小学校5先生か6年生くらいの児童という見当で考えていく。ある児童が担任の教師に愚痴っぽく打ち明けてくれた話題を、本人の了解を得た教師が、「学級活動(高校で云えば、ホームルーム活動)」で取り上げてもよいが、総合学習の時間に、1学期間かけて取り上げてみようと考えた。国語の作文の時間にその児童に、今、話してくれたことを作文に書いてくれと担任の教師が依頼し、その話題で問題を提起したのがきっかけとなった想定してみる。勿論、その児童の人柄、両親の人柄、家庭状況などを充分配慮した上でのことである。教師が、〇〇君の作文だ。〇〇君が発表してくれて構わない、みんなだったらどうするか意見を聞きたいと云っている、と云って、その作文を読んだ。「夕方遅く仕事から帰ってくる母が疲れているのは分るが、言うことがいちいちうるさい。夕食の準備はまだ出来てないのか、コンビニであれ買ってこいだの、これ買ってこいだの、ゴミ出してこいだの、ゴミは朝だっちゅうの。全くぶちきれそうになる」、ここで教師は作文を読むのを中断した。「先生、学活で話し合うの、それ?」、「いや、2学期の総合学習で取り上げる」、「何、それ?あ、特養へ行った、あれでしょう」、「2学期はやり方を変える、2学期いっぱいかけてやる」。「ええー!」児童たちの生活の問題であり、今までは、学級活動の時間で取り上げて来たが、ここは、今年度から新しくできた「総合的な学習の時間」で取り上げてみようと、教師は考えたのである。この「総合学習」、1学期は1時間または2時間単位で、地域にある特別養護老人ホームや養護学校を訪問して、いろいろ話を聞いたり、車椅子を押したりの体験学習を重ねてきたが、2学期には、この学期全体の時間を使って、体験的、系統的な学習にしようと考えたわけである。新しい実践である。



結構多くの子どもたちが身に覚えがあるので、「おれんちの母親は、」、「わたしのママは」と列挙した。「それで、みんな、その時、どうするんだ?」という質問が〇〇君から返された。みんないろいろ列挙した。教師が、一つ仕掛けてみた。「夫婦共働きのおうちの人、手をあげて!」と聞いてみた。勿論、担任だからどの子の家庭が共働きなのかは充分承知の上である。そして教師は、その次に、「お父さんにしろ、お母さんにしろ、いろいろうるさいことをよく言うよね。なぜだろう?」と聞いてみた。子どもたちは、めいめいにかなり自分勝手な自分の思いを発言し始めた。子どもたちは、○○君の投げかけた問題を自分の問題として考えはじめたのである。

そこで、「〇〇君のお母さんの立場に立って考えてみよう」と又、仕掛けてみた。今まで自分の問題として考えていた子どもたちに、母親、つまり最も身近な人間ではあるが、他者の立場で考えることになったのである。他者が母親なら考えやすい。
「自分の母親ならば……」と考えはじめた。発表も結構活発である。だが、なかなか子どもである自分の立場、自分の思いから抜け切れない。他者になりきれない。そこで、教師は次の仕掛けをする。「よし、シンポジウムやろう!」、「何、それ?」、「みんな4人ずつグループになって、〇〇君になる人、お母さんになる人、お父さんになる人、司会進行をする人を決めて、4人で討論会を開くんだ。問題は、夕食の準備がまだ出来ていないというお母さんの発言についてだ」、「先生、〇〇君はどうするの?」、「そうだな、〇〇君は、私の代わりに先生の役をやってもらおう。各グループを廻って、いろいろ相談に乗ってくれ。〇〇君、後でどこかのグループに代表グループとして、みんなの前でシンポジウムをやってもらうから、どのグループを代表にするか、君が決めてくれ!」。これで、みんな他者になって、その他者を自己の問題として考える仕掛けが出来た。〇〇君はみんなに冷やかされなが、結構張り切っている。教師は○○君の性格、学級の中での位置等を充分に理解して、計算づくでの仕掛けである。そしてこれは、遊び感覚で楽しんで考えられる仕掛けである。各グループ、それぞれの子どもの個性、資質もあって、母親や父親の立場、考え、職業、職業上の地位等をも配慮に入れた討論会を繰り広げているグループもあれば、好き放題を言っているグループもある。なかなか他者になりきることも、だからなおさら、その他者を自己の問題として考え、発言することも至難の技である。
次は、〇〇君の選んだ代表グループのシンポジウムである。他の子どもたちに、まずは、シンポジウムの各発言者の発言の聞き手にし、次に、その発言への質問、意見発表をさせた。始めの段階の意見・感想と比べてみると、驚くほどよく考えた意見を述べられるようになってきた。だが、このままでは終らせない。




「みんなが、ここまでよく考えて、立派な意見が発表できるようになるとは、先生は思わなかった。よく出来た。よし、ここまで来たら、みんなが自分でも気づかずに隠し持っている力を出し切るところまでやってみよう」、「先生、どうするの?」、「うちの学校の先生方にお願いしたり、中学校や高校の先生方にお願いしたり、図書室へ行ったり、市の図書館に出かけたり、いろいろな所に出かけて、いろいろと調べて来る」、「いいじゃん!何調べるの?」例えば、調査事項として。夫婦共働きの家庭は市内の小・中・高でいくらあるか、それは全体の何%を占めているか、差し支えのない範囲で共働きの理由は?、女性の働く理由は?、働く意欲は?、働きに出ている時間に子ども特に幼児をどうしていたか、子どもたちは学校から帰宅してからの時間を何をして過しているか、等々。
各校種の各校で、同じような学習活動をしていて、各校が、その関連データーを持っていて、相互に提供しあう体制が出来ていること、地域社会の協力が得られることが前提としてあると考える。
子どもたちは、数人のグループ(先ほどのシンポジュウムのとは別のグループ)を形成して、調査し、調査した資料をみんなに渡して、又、別のグループを形成して、この資料から何が見えてくるか、それについてどう考えたらよいかを話し合い、口頭と文章で発表する。そして、意見を交換する。グループを変えたのは、児童たちが、相互に今まで気づかなかった新しい視点を発見させるためである。
つまり、この学習のねらいは、自分の問題として、ものごとを理解する前に、その背景にあるものに気づき、自分の理解のための底辺・視野を広げることにある。



他者の問題として考えてきたものを、その他者を自分の中に受け入れて、再び自分の問題として考え、自己表現をする。その自己表現・自己実現に達成感を持たせる段階

今度は、3年生、4年生、5年生、6年生と、「総合学習」を学習している全員の前で、〇〇君が自分自身として、
出場し、母親役、父親役、司会者の4人でのシンポジュウムを開いた。全校の「総合学習」の発表会のプログラムの一つとして、学年代表としての出場が実現したのである。この後、会場の3、4、5、6年生からの質疑応答、討論もあった。このままでは済まさない。次の仕掛けがある。
次に保護者を招いて、保護者の前で同じシンポジウムを開くことにした。誰も先日の3年生以上の前でのシンポジウムの時と、同じ発言をしなければならないことはない。考えが変れば、発言を変えてもよい。また、会場の保護者との質疑応答、討論会も予定している。学校代表だ、しっかりやれと、たくさんの先生方に激励された。
以下、〇〇君に焦点を当てて述べる。〇〇君の「母は仕事から疲れて帰ってきて、夕食の準備も出来てないとがたがた文句を言う。みんなならどう考えどうするか」と問い掛けたことに、先生も協力してみんなで考えてくれた。いろいろ調べて考えているうちに、日本の国の社会状況や女性の置かれている位置、状況などが、子どもながらにも分かってきた。自分が自分の考えを発表し、他人の意見を聞き、それに応じて自分の考えを述べる、そしてみんなに聞きいてもらうシンポジゥムも1回すませた。でも、今日は本番だと思うと緊張してきた。「ああ、この間のは、リハールだったんだ。よし、本番!」と思うと、少しは気が楽になった。「よし、友達がやってくれる母と父に思いっきり、あの後で自分が考えたことをぶっつけて驚かせてやろう」。舞台に出て、〇〇君の名前が大きく書いてある席についた。大きく息を吐きながら見まわした。「わあ、大勢の保護者がいる!あっ、あれ?母がいる、親父も!あんなに後ろに隠れるようにして!あれほど来るなって言っておいたのに!」。そう思いつつ、何故だか心の片隅では嬉しかった。両親は、自分に激しく出席を拒否されて、今日はこっそりと隠れるようにしてやって来たのだ。「よし、二人の母と二人の父の前で、言いたいことを言ってやるんだ!」。シンポジウムは始まった。○○君は言いたいことはみんな言った。お母さんとお父さんは、どう思って自分の発言を聞いていたであろうか、いや僕の顔を見ていたであろうか。○○君は楽しくもあり、気がかりでもあった。家に帰ったら、母は、父は何と言うであろうか。いや、隠れて来ていたのだから、何も言えないか。
そして、2学期の最後に、○○君は、このテーマで作文というより論文を書いた。市内の小・中・高校生の総合学習の今年度の成果の一つとして、市の文集に掲載され、市民にも配布された。
○○君の自己表現による自己実現は、作文による問題提起に始まって、数多くの友人、つまり他者が○○君に代わって意見を発表してくれる等の実に多くのプロセスを経て、大きな達成感とともに終了した。松尾は、この自己を他者にし、次いでその他者を自己にして自己表現するプロセスを演劇的表現と考えている。

3 具体的実践案

中学校の場合の一つの例

一例として、具体的な資料名を挙げ、具体的な実践案を述べるが、実際にこういう総合学習が実践されたわけではない。
一地方小都市の中学生たちという想定で考えていく。その中学校では、総合学習のテーマとして、ひとつは、近くに特別養護老人ホームがあり生徒たちは小学生の頃からよく訪問していたことから「福祉問題」を予定した。さらにひとつは、近くに山もあり、農地もあり農業に従事している人口もかなりある、一方では工場地帯もあって生産活動も結構盛んであることから、地域の「環境の問題」を選んだ。もう一つは、市内に古墳地帯があり、神社や寺院が数多くあり、民俗芸能も盛んである。そこで、「歴史を読み取ろう」という、その地域独自のテーマを想定した。実は、勝手ながら、松尾の生れた土地(吉川町)や現在の居住地(明石市)に比較的近い、兵庫県の加西市内や小野市内の中学校を想定した。地方の小都市である。全国的にこういった土地の中学生が数多いのではなかろうか。

1. 学校や地域社会の協力
学校では、その地域社会の中から、生徒の取り組み可能なテーマを想定し、そのテーマに関係する地点、場所等も調べておいた。そして、生徒が調査等のために訪問することへの理解、協力を依頼し承認を得ておいた。資料の準備である。もちろん一方で、関係のある資料、場所等を独自に生徒たちにも見つけさせることも大いに必要である。学校としても、大いに歓迎することにした。学校は、大きい四つのテーマを以下のように想定し、そのために準備しておいた資料を、学期の始めに生徒たちに提示した。
大きい四つのテヘマとは、・環境 ・福祉 ・健康 ・生徒の考えた独自のテーマ(これは学校としては大歓迎である)

2. グループ形成とグループのテーマ発見
まず、グループ分けをした。ここでは、教科の学習とは違うので、「中学生」という発達段階独特の心理を考慮して、1年生、2年生、3年生という異年令で一つのグループ(30人くらい)を形成した。さらにそのグループが小人数の数多くのグループ(最低3人くらい)に分かれることになるが、必ず1年生も2年生も3年生もそのグループの中にいるように配慮した。
さて、自分たちのテーマを発見するたるに、生徒たちを資料の海の中に漬けた。独自に資料やテーマ発見のために校外に出ることも許した。もちろん生徒たちが訪問する外部には前もって了解を得ておいた。まず生徒たちを希望によって大きい四つのグループに分けた。自分たちのテーマを発見させ、どのテーマのグループに入るかを決めるために、資料の海の中に漬けたのである。
その資料の中から、独自のテーマを発見した生徒たちがいた。いずれも、同一著者(山田正雄、この地域の元教師、歴史研究家)による「播州黍田村農民の歴史」、「黍田村に生きた人々」、「近世播磨の農民像」という本を読んで、興味を持ったグループである。そのグループ全員が集まって、相談し、先生とも相談して、「わが町の歴史から読み取ろう」というテーマを決定した。以下、「歴史から読み取る」グループと呼ぶことする。

3. 各グループ活動開始、「歴史から読み取る」グループの活動(テーマ 歴史から読み取る)

(1) 再び資料の海に漬かる

学校や地域の図書館で、例えば、小野町誌、小野市誌、北条町誌、加西市誌等、付近の地域の「市誌」類を借りてきた。

先述した地域の歴史書である、山田正雄著:「江戸時代農民の生涯 黍田村に生きた人々」、「播州黍田村農民の歴史」、「近世播磨の農民像―黍田村庄屋佐七郎の生涯―」等。

その他、生徒の家庭に保存されている古文書類等これらの資料を読み、先生や市内の専門家を質問攻めにした。何しろこれらの資料の大部分は、古文書しかも独特の、国語の教科書の古文には出て来るはずのない、言ってみれば勝手極まる古文書である。先生や専門家を質問攻めにし、ついでに現代文に直してもらったりして、読み、話し合い、討論しあった。

(2) 自分たちのテーマ発見・気づく

約30人の「歴史から読み取る」グループを更に小人数のグループに分けるために、上記のとおり、読み、話し合い、討論し合った。
生徒自身に、自分の問題として、自分で見つけさせるために、ある程度気長に時間をかけることにした。
Aさんたち(3人と想定。以下Aさんたちと呼称)は、著者が近くに住んでいてこの地域の人であり高校の先生であったこと、黍田村がこの近くの、今、小野市黍田町というところであることから、興味を持って、山田正雄著「江戸時代農民の生涯 黍田村に生きた人々」を読むことにした。そのAさんたちが、いろいろ話し合っているうちに気がついたことを列挙する。

a 先ず「興味を持つ」段階である。

「歴史から読み取る」グループ全員で読んでは、気づいたこと、興味のあることを発表し、記録した。Aさんたち3人の抱いた興味・関心は、グループの中でも、やや異色あるものであった。
無届けで西国三十三所の札所巡礼の旅に出かけただけで、なぜこんなに大騒ぎになるのか。明和6年6月5日、つゆという娘が父親にも無断で居なくなった。
驚いた父親は、きまりだから村の庄屋に届け出た。(家出・逃亡)したと村の年寄、庄屋は、役所に届け出て、役所は村全体に、30日の期限付きで探し出すように命令を出した。「三十日尋」という。つゆは、1か月余り後にひょっこり帰って来た。つゆは、亡き母を弔うためにかねがね西国巡礼したいと思っていたのだ。帰って来たと届を受けた役所は事を重大視して、庄屋、年寄、本人、親、親戚の者、五人組(役所が支配、管理する、つまり年貢を取り上げるための住民組織)のうち二人を役所に出頭させ、取り調べの上、つゆに「」(手錠)の刑を申し渡したが、庄屋の心情溢れる申し出で、情状酌量の上「きつくお叱りおく」ことで一件落着した。大体、西国札所巡礼にしろ、四国遍路にしろ、役所に届け出て許可されて、往来手形(パスポートのようなもの)を貰うことになっている。
その往来手形には、「万一遍路の途中、病死するようなことがあっても国元へ知らせてもらう必要はない。その所のしきたりに従って葬ってもらいたい」と書いてあるのである。身元不明の変死人扱いである。人権無視も甚だしいではないかとAさんは思った。
このつゆの事件の2年後の明和8年には、全国的に「おかげ参り」(抜け駆けで伊勢神宮参拝)という異常事態が起こっている。何万、何十万という民衆が無届で、伊勢参宮を行なったのである。この黍田村からも66人の老若男女が出かけている。あまりに熱狂的で大規模な民衆運動であったため、役所も黙認するしかなかったようである。不合理ではないか。
「歴史から読み取る」グループのみんなが興味・関心を抱いたことは数多くある。それらは、話し合いの中で、次のb項に列記した4項目に集約されて行った。

b 次は「知ろうとする」段階

これは、「え、なぜ?」から、問題点を探り出し調べる段階である。
Aさんたちが所属している「歴史から読み取る」グループのみんなが出した、興味を持ち調査したいテーマは以下のとおりである。

  1. 黍田村の経済状態(貧農というべき黍田農民の経済状態)
    米の生産高(反当り、1石余) 1戸当り平均反数(4反くらい)
    石当り年貢米租率(47%余) 多かった凶作の年
  2. 家族状況
    子供が多い 家の後継ぎは長男 次男以下は、奉公に出る ぎに出る
    身売りする女の子も多い 子供の死亡率は高い 一生独身者、自殺者
  3. 農民支配のしくみ
    領主⇒陣屋役人⇒大庄屋⇒庄屋⇒年寄⇒百姓代⇒組頭⇒五人組
    宗門改・宗門改帳の存在
  4. 信仰と娯楽
    現在も、神社の祭礼での町内ごとのだんじりなどは、盛大である。
    この1、2、3、4にそれぞれ何人かのメンバーが所属して調査・研究グループを形成した。

c 次に「気づく」段階

2、3人の小グループに分かれて、上記テーマでの調査研究に入った。「歴史から読み取る」グループの中で、口頭や文書による発表が繰り返された。ユニークだったのは、Aさんたちである。
Aさんたちは、「なぜ、役所のしめつけがこんなに厳しいのに、西国三十三所巡礼、四国遍路、伊勢参りにでかけるのか?」に拘った。現在、伊勢は修学旅行の行き先になっている。旅行社に行ってみた。西国三十三所巡礼や四国遍路は楽しい旅行のコースとしてパンフレットもあった。しかし、つゆの場合やおかげ参りはそんな20世紀の旅行とは全く異質のものに思えた。いろいろなグループの発表を聞いているうちに、極端に貧しく苦しい生活を強いられている農民たちにとって、楽しみは何だったのかと、ふと考えるようになった。だんじりの出るお祭りは現在も盛大に行なわれ、住民たちは興奮している。ひょっとしたら、どうしても体がそう動いてしまう止むに止まれぬ本能的な楽しみへの欲求が西国三十三所巡礼や四国遍路やおかげ参りではなかったのか、いや、違う、苦しい生活からの脱出・逃避ではないのか。Aさんたち3人の中で議論は沸騰した。
Aさんたちは、シンポジューム形式をとって「歴史から読み取る」グループ内での発表会を開いた。一つは、発表したかった、聞いてほしかったからである。
3人の人柄丸出しの企画であった。しかし一方で、自分たちだけの狭い視野で研究を進めたくはなかった。自分たちには気づかなかったいろいろな考え方や事実を知りたかったのでもある。聞いてくれた他の生徒からいろいろな感想が述べられた。大いに参考になった。その中に、「文化9年に、黍田村にかくれ芝居事件」があったという記録がある、調べてみては、という提言があった。関連して、近くの県立農業高校に伝統芸能伝承の部活動があり、校内には歌舞伎棟という建物があって、そこでは生徒たちが歌舞伎を上演し、多くの人たちがその舞台を見ていることを思い出させてくれる発言もあった。ただ、Aさんたちは、この段階ではまだ西国三十三所や四国遍路やおかげ参りの問題と歌舞伎ではないが演劇として上演してみようという問題とは結びつかなかった。

(3) テーマを自己の問題にする

Aさんたちは、シンポジュウムの後、いろいろとみんなが述べてくれた意見を大いに参考にして調査・研究を進めた。Aさんたちのシンポジウムの後、「歴史から読み取る」グループではシンポジウムが流行した。意見を戦わせ、自分たちの調査・研究の参考にするのである。あの時提言のあった「文化9年、黍田村かくれ芝居事件」の記録をAさんたちは調べてみた。記録によると、文化9(1812)年7月24日と25日の両日、村ではその日は「雨乞いの願かけの日」(田を植えて稲を育てるには雨が降ってくれることが必要)で大歳神社に芸人一座を招いて「ケ」を奉納した。ところがその後、ひそかにかくれ芝居をしたという噂が広がって大庄屋の耳に入り、庄屋が呼び出されて取調べを受けている。この時庄屋は「はばかりながら口上」と口上書を出して釈明をしている。その口上書を読んでいるといろいろと面白いことがわかってきた。先ず、口上書の内容紹介以前に、

  • 当時、農民が能、狂言、操り、芝居などを観ることも演じることも禁止されていた。いろいろな市誌に、そういう江戸時代の禁止項目の文書があるということを述べておく。
  • そして口上書には、芸人が「御面掛ケ」を演じた後、村の若者が浄瑠璃を語ったり手品や物真似をしただけで、芝居のための小屋掛けはしていないし、芝居も一切してはいないと申し開きをしている。ところで浄瑠璃(操り)も禁止のはずだか、どういうことか。
  • 「殊の外お叱り」を受けて一件落着している。

おそらく、かくれ芝居はやったのであろう。先生に聞くとかくれ芝居は、このあたりの地域でも結構やっていたようである。そして、農民たちは、しばしば隠れ芝居をやっては、後でお咎めを受けている。言いかえれば、奉行はかくれ芝居を知らぬふりで見逃し、後でそれほど厳しくはないオ咎めを行なうのが常態であったようだ。
Aさんたちは、ふと、こうまでして芝居をする農民のエネルギーは一体何であろう、と考えた。そして、無届で西国三十三所巡礼の旅に出たつゆが意識の底に持っていたものとおかげ参りに出かける農民のエネルギーとに共通するものがあるのではないかと考えた。お互いにいろいろと意見を戦わせてみるが、本能的な楽しみへの欲求だ、脱出だ、逃避だ、シンポジュウムの時の討論以上に一歩も出ることが出来ない。

[演劇的表現開始 ]劇をやろう!

突然、Aさんが「つゆの人生を私たちで生きてみよう」と言い出した。「え!どうするの?」「劇をつくって、つゆ
を舞台でやってみるのよ」「ふーん!」、「歴史から読み取る」グループの他の人の発表も頭に入れて、舞台の上で、つゆや他の人たちの人生を生きてみよう、つゆの心の底に潜んでいるもの、恐らくは農民たちの心の底に潜んでいるものと共通する何かが分かるのではなかろうか。それをグループの他の人たちに観てもらおう、口先の発表や、書いたものでの発表よりよほど迫力があるというのである。こういうことに乗りやすいのが、Aさんたちである。「歴史から読み取る」グループにも出てもらおうと、張り切った。

[演劇的表現a]ドラマづくり始まる

まず、「歴史から読み取る」グループのみんなが調べてまとめて発表したことを、もう一度説明を聞いたりしながら
復習した。ついでに「劇をやるから出演してほしい」と説得して廻った。特に男子は「恥ずかしい」と嫌がったが、こんなことでくじけるAさんたちではなかった。脚本作成のために理解を広め、深める作業に入る。



[演劇的表現a-1]脚本を書こうと思った。先ず、登場させたい人物を挙げた。

登場人物:

・藤右衛門(明和6年、61歳)
・母ぎん(明和2年、48歳で死亡)
・長女つゆ(明和6年、22歳)
・長男若次郎(明和6年、20歳)

・次男三四郎(明和6年、16歳)
・次女そね(明和6年、14歳)

・藤右衛門の弟惣兵衛(明和5年、55歳で死亡)

藤右衛門家の状況:持高、4石2斗余

[演劇的表現a-2]書きたいことがらいろいろ。
(「歴史を読み取る」グループのメンバーの意見を大いに取り入れた。理解を広め、深め、見識をつくりあげるためである)

  • 藤右衛門の兄善右衛門も弟惣兵衛も毎年木挽稼ぎに出かけている。農民の経済事情や江戸時代の次三男の不遇な立場
  • 兄善右衛門が急死し、藤右衛門は分家独立した。弟惣兵衛同居。
  • つゆ、姿を消した。明和6年6月5日早朝である。つゆ22歳。大騒動起こる。1か月余でふらりと帰って来た。そのつゆ、26歳で嫁入りしている。
  • そね、19歳で嫁入り。
  • 三四郎、13歳で年季奉公、16歳で逃げて帰った。19歳で京都に年季奉公、23歳で欠落。

[演劇的表現a-3]劇のストーリーを考え始めた。ところが、脚本にならない。

ストーリーを追って、登場人物にしゃべらせてみても、おもしろくも何ともない。この脚本(と云ってもまだ一部だ
が)を読んだみんなの感想は、抽象的な見解の単なる説明、発表に過ぎない、こんなもの見たくもない、と素っ気無いものであった。Aさんたちは、悩みぬいた。「歴史を読み取る」グループは、面白がった。
単なる説明にはならない具体的な場面を考えてみることにした。いくらでも場面は考えられる。必要に場面とは、どんな場面だろう。で、

  • 時は、明和6年、つゆがいなくなった当日:人物、藤右衛門(61歳) 長男若次郎(20歳) 次女そね(20歳)
  • 庄屋に届けてからの大騒動は、ナレーションで簡単にすませよう。単なる説明だ。
  • たくさんの巡礼たちと一緒に、お参りのため西国三十三番札所のどこかのお寺に向かっているところ。どこか野の道ばたで休んでいる場面にしよう。
  • 帰って来たつゆの、役所での取調べの場面:お役人、庄屋、年寄、藤右衛門、つゆ、親類、五人組の中の二人
  • 最後に、つゆひとりで、つゆの気持ちを語らせる。

以上5場で構成しようと考えた。
もう、総合学習の時間で、なんて言っておれない。Aさんたちは、至るところで、考え、話し合った。その姿は、結構みんなの話題になっていた。みんな、面白がっていた。Aさんたちは、そんなことはお構いなしに賑やかに相談し続けた。
Aさんは、ぶつぶつ言いながらグランドを歩き回っている。他の二人は、いささか呆気に取られている。「おい!つゆ、つゆはおらんのか!夕飯の仕度が出来とらんぞ!つゆ!」、「そんなことなら、うちのおやじも言ってるよ」と一人、他の一人「つまり、それは、現在だっていうこと。江戸時代の黍田村の人間は登場してないよ」。
Aさんたちは、自分たちが「劇にしよう」と考えた、その意味を考え直してみた。みんなの目の前で演じて歴史から生きた人間を読み取ったことを分かってもらうことではないのか。いや、劇を見ているみんなにも、一緒につゆや藤右衛門を生きてもらうことではないのか。

[演劇的表現a-4]つゆや藤右衛門の人間像を考えてみよう。

つゆの人間像:
4人きょうだいの長女である。やがて嫁入りしなければならない。お嫁入り、それは夢ではある。庄屋さんの家の娘ではないのだから、貧しいお嫁入りになる。それでも女の子の微かな夢ではある。その前に年季奉公に出なければならないかも知れない。「大坂へ奉公に出て帰って来ない子もいる、今頃、どうしているだろうなあ、羨ましいなあ、町の暮しが出来て」。彼女は、大坂への年季奉公が遊女としての身売りであることは、全く知らない。
世の中、こんなものだと、疑いもせずに毎日を暮らしている。何より、知っておかなければならないのは、村の人たちは、庄屋や名代の子を除いて、女の子は字も知らない。教育は全く受けていないということである。ただ、つゆの今の思いの大部分を占めているのは、4年前に死んだ母のことである。「おかあちゃん、あの世でどうしているのだろう。会いたいなあ!……おかあちゃん、百姓仕事の外に、みんなのご飯作ったり、裁縫でみんなの着る物縫ったり、つらいわあ、おかあちゃん!……その内、会いに行くよ!」

藤右衛門の人間像:
字くらいは、読めるし、書ける。毎日百姓仕事に追われて暮らしている。今年は、米は無事収穫できるだろうか、年貢は納められるだろうか、それが頭の中を占めていることである。それに、五人組の中やその他の村の人たちとの付き合いにも気を使う。兄貴善右衛門が死んだので、養子に行かずにすんで、家の後を継げたのは、うれしいことである。それだけに、皆の衆との付き合いには気を使わなければならない。そんなことを考えて、毎日を過している。

その他の人間像:省略

[演劇的表現b]脚本は、みんなで演じながら書こう

「自分が書くのが面倒臭くなったんだろう」、「自分に才能のないことに気づいたんだ」などと非難を浴びながら、それにも挫けずに「歴史から読み取る」グループの中から、Aさんの強引なご指名で、必要な登場人物をそろえた上で、Aさんは提案した。
「ここはこんな場面こんなストーリーだと、私が説明するから、みんなは役に扮した自分で相手に向かってしゃべって、動いてよ。それを繰り返していると脚本が出来あがって行くと思うの」、「厚かましい!で、あんたは、何やるの?」、Aさん曰く「わたしは、つゆ。そして演出・進行役」、「呆れたあ!」とみんなの顰蹙を買った。しかし結構、みんなも面白がって、芝居づくりが始まった。
Aさんの心がけたこと。出演しているみんなに要求したことは二つ。一つは、自分の役について毎日、いろいろと考え、発見しながら、稽古になると自分のことばで、自分の思いをしゃべり行動に出してくれ、ということ。もう一つは、みんなお互いに、批評し合い、注文を出し合うことである。そして同グループの第三者には、グループとして発表しなければならないものの一環としての視点も加えて、全く第三者としての、感想、批評を要求した。

(4) 達成感を伴う自己表現・自己実現

[演劇的表現c]やがて発表会の一環として上演した

まず、「歴史から読み取る」グループ内で発表した。そして次に全校生を対象に「総合学習の発表会」という学校行事として発表した。先生方は勿論、保護者もたくさん見に来てくれた。
ここまでは、生徒たちも学年始めから承知していた。ところが、生徒たちの「総合学習の時間」の進行状態を見ていた学校は市の教育委員会に提案して、ここで一つの仕掛けをした。市民会館を借りて、市内の中学校の合同発表会を開催したのである。Aさんの中学校からは、「歴史を読み取る」グループが代表として出場した。

[演劇的表現d]発表会での感想・批評、つまり、学習成果

いろいろな発表会の都度、面接で直接聞くなり、アンケート形式によるなりして、感想・批評を求めた。それは、こ
の、口頭による発表、文章、展示による発表、そしてAさんたちの演劇形式による発表による総合学習の成果への批評にもなっていた。以下は、Aさんたちの演劇形式による発表に加えられたものである。

ふだんから、夢中になって熱中しているみなさんの活動ぶりを見てきたので、舞台を見ていて、感動した。涙が出てきてしかたがなかった。(同類の感想が数多く寄せられていた)

このような感想・批評を学習者たちが受け取るということは、人間形成のための達成感を伴う「自己表現による自己実現」に繋がる。

舞台化にかける情熱のようなものは、確かに伝わって来たが、本当に言いたいことは何なのか、登場人物の気持ちはどんなものか、充分には伝わってこなかった。

この類の感想・批評を細かく分析してみると、以下のように分類できる。

  • 人物設定、せりふ等、脚本の問題。(ドラマツルギーの問題)
  • さらには、人物を設定するなりせりふに形象化するなりの以前の、歴史的事実への理解・認識が不充分であるという問題。(脚本理解、役づくりの問題)

  • 技の問題、つまり発声や動きが不充分で、表現したいことが、充分客席に伝わってこなかった。(この類の感想には、プロではなく、まして中学生であるのであ
    まり勝手なことは言えないが、見ているとまだまだ出来そうな人たちなのであえて注文をつけるという注釈がついていた)、(役づくりの問題)

これらの問題は、ランクアップした「演劇教育」の問題に繋がってくる。勿論、中学生にこういった学習が、更に云えば自然発生したと云える必要性に基づく学習が、自然に演劇教育だと意識することなく入って来るのは歓迎すべきよいことである。
しかし、意図的・体系的な「演劇教育」は高校段階ではなかろうか。
総合学習での演劇的表現による学習の目標は、別の言い方をすれば、「演劇で学ぶ」学習であり、「演劇を学ぶ」学習は、それを意図的・体系的に実施するのは、高校の特定のコース(例えば、宝塚北高校演劇科)であろう。

こういう内容を演劇形式で発表するのが適当であろうかという問題。
これが、そのままAさんたちへの評価であろう。Aさんたちは、挫けずに、また、劇的表現で再挑戦すると言っている。


高校の場合の一つの例

これも、実際にこう云う実践があったわけではない。具体的な実践案として、松尾が想定したものである。

その地域社会の文化・芸術活動を利用する総合学習の実践案

都道府県等、その地域社会で実際に行なわれた、また、行なわれる予定の文化・芸術活動を、単なる観賞、受容・理
解活動ではなく、高校生が全く好きな角度で捉えて、自分たち自身の問題として理解し、考え、討論する、乃至は稽古する等のプロセスを経て、発表、発言等の行動を起して行く。その中での人間形成に繋がる学習成果を挙げていく。総合学習をそんな角度から捉えた具体的実践案の一つである。
具体的には、一例として、兵庫県の「ひょうご舞台芸術」を利用した活動を想定している。しかし実際にこんな活動が存在したのではない。それぞれ自分の地域ならばと、置き換えて理解してほしい。さらに、ここでは、演劇の舞台を例にとったが、その場が、音楽の発表の場でも、舞踊や美術の発表の場でも、また文化講演や文化講座の類でもよいのではないか。
今、「ひょうご舞台芸術」を利用する高校生の総合学習の実践例として仮に想定したものは、高校の国語の教科書に教材としてよく出て来る、また、大学入試問題の問題文としてもしばしば出て来る山崎正和氏の、「二十世紀」という戯曲が、「ひょうご舞台芸術」の第20回公演として取り上げられた。この作品、舞台を取り上げるという想定での実践案である。お読みになるみなさんは、何らかの戯曲作品・舞台公演に置き換えて理解してほしい。
以下、この作品の公演等の具体例には、詳しくは触れないようにしたいが、作品の内容には簡単に触れておく。以下は、雑誌「ひょうご舞台芸術」Vol. 20 の記事の一部である。

アメリカの写真雑誌「ライフ」の表紙を飾った女性写真家、マーガレット・バーク=ホワイトが主人公。大恐慌、ファシズムの台頭、第二次世界大戦など、バーク=ホワイトが生きた時代を通じて、戦争や工業化、人種問題に揺れた二十世紀そのものを描き出(している)。戦場も高層ビルの屋上も火花飛び散る機械工場の中も、恐れることなく足を踏み入れ、果敢にシャッターを切りつづけるバーク=ホワイトは、やがて世界的名声を得るようになった。しかし、写真家として頂点を極めたまさにそのとき、難病に倒れカメラを持つことすらできなくなる。栄光とそこからの転落。屈折した心を隠しながらも、それをバネとして成功への野心を燃やすバーク=ホワイト……。(以下略)

「総合学習」の教材の一つとして、生徒たちの前に提示された。この場合戯曲「二十世紀」ということにしておく。その舞台のビデオ・テープが提示されたと考えてもよい。実際には「ニ十世紀」はビデオ化されていない。更にまた、地域の高校生が、該当の作品の舞台を団体観賞をして、更に、作者や演出家、出演俳優等を囲んでの座談会が実施された、その記録、座談会に同座した高校生たちの体験そのものも、総合学習の教材になる。
ここで注意してほしいのは、その地域社会で発表された作品は、ビデオ教材として使用するためには、著作権の問題がからんでくる場合もあるのでクリアしておく必要があるということである。これは学校乃至は教育委員会の仕事であると思う。よくある例であるが、劇場で、または校内の体育館などで団体観賞している時に、その舞台を勝手にビデオに収録することがある。その劇団に了解をとっての上のことであろうが、これも著作権の問題が発生するのではないか。
或は、戯曲作品として提示された。その作品を舞台公演をする場合には、その公演の主催者との著作権使用料等諸問題が絡むこともあるのでクリアしておく必要がある。

2. 生徒自身の問題として気づく

原則として、2、3人またはそれ以上のグループで取り組むことにする。かなり時間をかけての話し合いの中で、い
ろいろ取り組めそうなテーマ・問題をたくさん挙げて、出来れば、今生徒たちが考え話し合っている「取り上げ可能テーマ・問題一覧表、または予定テーマ・問題一覧表」を1、2回生徒に開示してみる。その一覧表からヒントを得る生徒たちも出て来るであろう。そのうちに、自分たちのテーマが決って来る。勿論、二転三転することもあろう。可能な限り、気長に待つ方がよい。そして、決定したら、もう変えないという約束である。方法論や研究へのヒントは、教師チームや先輩(2年生や3年生)が提供出来る体制を作っておく。場合によっては校外の大学や地域社会の専門家から話を聞いて方法論や研究へのヒントをつかむかもしれない。

[取り組むテーマ発見]

3. 自己の問題として表現しようと、歩き始める

それぞれのグループが、調査・研究、討論・話し合いを始める。

[支援体制について]

生徒はこういう経験は皆無に近い。今、資料を戯曲に限定して考えているが、実際には生徒たちはいろいろな分野の
いろいろな問題に取り組むので、いつでも駆けこめる「駆け込み寺」教師チームや先輩たちの存在は必須のものである。教師チームが、「この問題は、この大学のこの先生の処へ教えてもらいに行け」と示唆を与えるかも知れない。既にその先生とは、何曜日のどの時間帯にどこそこへ来れば指導してもらえる、という約束がとってあるのである。勿論、アポイントをちゃんと取らせる指導も必要である。
恐らく各地方自治体は、生涯学習に関しては、その地方自治体内の各大学と提携して、各大学の先生や専門家が講師になり、その地方自治体が企画する「講座」を開いていると思う。
ここは、一つの提案を兼ねて、地域内の各大学や地域の専門家等の高校総合学習支援組織があると考えてみる。生徒への資料提供のために、学年度始めに大学の先生や地域の専門家の講義がその地域で開かれる。そして、調査・研究が進み始めると、疑問が生じた、どう考えどう進めたらよいのか分からなくなる、つまり壁にぶつかった等の場合の支援組織が、上記の「何曜日の何時にどこそこで大学の何先生が質問に答えてくれる、教えてくれる」を可能ならしめるのである。
いろいろな分野の大学や地域の専門家を学校や教育委員会等が依頼しておいて、支援組織として準備しておくことが出来ればよかろう。

[資料収集、調査・研究開始]

そういう指導を受けつつ、資料収集を始めた。資料が集まると、また、いろいろな人たちの指導を受けながら、話し
合い、討論し、自分たちのテーマを探し始めた。そして、自分たちの取り組みたい問題、分野が決り、調査・研究のための、或はその結果に基づく話し合い・討論が始まる。調査・研究が進む。

4. 自己表現・自己実現

[目標設定――発表する・代表として発表会に出場する]

ここで、考えて置かなければならないのは、目標を持たせることである、というより義務感を伴う目標を学校は設定
することである。発表する-例えば発表会を開いて、口頭で、シンポジュウム形式で、文書で、展示して発表する予定を決めておくのである。更に進めて、その発表を校内だけに止めず、地域での合同発表会を開くのである。この発表会には、各校の、口頭での、シンポジュウムでの、文書での、展示での学校代表が出て来る。言わば地域大会である。この後、各地域の代表が出て来る中央大会がある。これらは、記録として残されていく。こういう仕掛けを作ってみたのは、生徒たちに到達感、達成感を持たせるためである。しかし、部活動でよく見られるコンクール形式だけは避けたい。ここまで来ると、これは都道府県の教育委員会の主催、或は協賛行事になって来よう。それ相応の予算を伴う事業になってくる。それだけに、その実現には困難な面があるが、実現できれば、総合学習は成果を挙げるであろう。

[舞台を創る・上演する=作中の人物の人生を生きる]

中でも、歓迎したいのは、その作品(例えば山崎正和作「二十世紀」)を、自分たちの手で、形象化・舞台化する試
みである。決してプロの舞台人ではないし、プロを目指す必要もない。部活動の演劇部に拘らない。決して舞台に上手に形象化することを第一義に置くのではない。演劇部のコンクールではないのである。作中の人物の人生を生きてみる試みなのである。そのためには、作品理解、作中人物理解のための作品研究の作業は欠かせない。作品を繰り返し読む、関連資料を集めて理解し研究する。話し合い・討議・研究レポート作成と発表等の作業を経過して、稽古に入る。
稽古に入ると、その生徒たちが発声や演技が気になり、基礎訓練を始めるかも知れない。結構である。そのためのコーチを準備することもよかろう。兵庫県の例で言えば、と云っても松尾自身の勝手な想定であるが、県立ピッコロ劇団が、場合によっては県下を巡回している。その指導、援助を受けることも考えられる。
しかし、あくまでも形象化のプロセスを通じて得られる「生きたすばらしい人間を自分も生きる」経験が大切なのである。その人物を形象化して観客の人たちに理解してもらい、感動してもらえるよう工夫し、努力し、訓練することが必要なのである。
各校の戯曲上演の舞台は、校内で発表され、選ばれて地域大会で発表され、さらに選ばれて中央大会で発表される。それぞれの舞台発表には、それを観た生徒たち、その他の観客からの感想を書いてもらう。また、出演生徒やスタッフ生徒と観客との討論会、そして可能なところで、作者、演劇評論家、更にこれは望ましいことであるが、演劇関係者でなく作品の内容に関係する分野の専門家、評論家等を招いて、感想や批評を受け、生徒たちとの討論会等も開催する。後で、自分たちの姿勢や方法、そして作品そのものへの考え方等について考え直す。
舞台への形象化に関わった生徒たちは、最後に年度末に「自分の得たもの」を文章等でまとめて終る。
その地域で演劇の公演があったということと、その作品に拘って話を進めて来たが、勿論、総合学習は、「序」の部分で触れた通り、「国際理解・情報・環境・福祉・健康などについて」、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し」学習を進めるもので、恐らくはいろいろな課題を生徒たちは、みつけてきて、いろいろな学習を展開するものと期待している。

4 結びにかえて

結びにかえて、一言しておきたい。文部省から昭和22(1947)年に「学習指導要領試案」が出された。戦後の新しい教育の出発点であった。その中に「自由研究」なるものがあった。それと併行するように、コア・カリキュラムの学習が進んでいた。児童・生徒が、自ら経験しつつ学ぶ学習(経験学習)である。その当時学生であった筆者は、その新しい教育なるものを近くで見て、また教授たちから話を聞いて、「変るんだ」という感動みたいなものがあった。ところが、「自由研究」は、昭和24(1949)年に、一部改訂されて「学習指導要領試案」から姿を消した。「特別教育活
動」が代わって登場してきた。理由は、学力がつかないからだと聞かされた。当時、川柳に「六三制 野球ばかり うまくなり」と勉強しない学校教育を皮肉ったものがあった。昭和26(1951)年の第1次改訂「学習指導要領試案」には、勿論、「自由研究」はなかった。そして、昭和33(1958)年の第2次改訂「学習指導要領」からは「試案」の文字は消えた。経験学習から、体系学習、能率学習へ切り替えられた。学力重視、進学競争が激しさを加えて行った。高
校に「進学校」なるものが姿を現わし、進学塾が隆盛を極めた。学歴社会の出現である。その教育が、人間形成上にひずみを齎した。社会状況の変化である。
昭和52(1977)年の改訂には、「ゆとりの時間」が登場してきた。平成元(1989)年の改訂では「社会の変化に対応できる人間の育成」が重視された。時代の変化を読み取り、それに対応する措置である。そして、今回、小・中平成10(1998)年改訂、高校平成11(1999)年の改訂では、完全学校週5日制の実施、各学校がゆとりのある教育活動を展開し、子どもたちに「生きる力」を育むことに主眼をおく教育の方向が示された。その実現を目指して、「総合的な学習の時間」が設けられた。昭和22年の「自由研究」と対比できる部分があるのではないか。勿論、実施困難であった「自由研究」の弊は克服されていようし、「現代」に対応する教育として充分考えられていよう。平成10年7月に発表された「教育課程審議会答申」を読むと、そのあたりは読み取れると思う。
ところが、今、その新しい「学習指導要領」、「総合学習」の完全実施を目前に控えて、また、「学力がつかない、既に今の学生・生徒には学力がない」という声が噴出してきた。筆者には、半世紀前の繰り返しのように思われてならない。「学力がない、つかない」という声をあげなければならない当面の教育事情は、よく分る。事実、深刻なものがある。しかし、「総合学習」に「自由研究」と同じ道を辿らせてはならない。松尾の思いである。

(2000年7月、投稿)