里見実先生を囲んで(秋葉昌樹)
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「文化の貧困とは,文化をつくりだす力の貧困である」。たとえば里見・久保論文の冒頭 (1981:126) に掲げられたテーゼにもあるように,里見先生の思想は力強い。が,ガチガチの力強さではなく,しなやかさをそなえた力強さに感じた。じっさい,先生がこれ まで牽引なさってきたお仕事のお話は,とてもとても魅力的で,示唆に富むものだった。ホンモノを創って来られたしなやかさなのだろうか,おだやかなお人柄 は,私が知る権威主義的教育社会学者たちの対局にあるようにも思え,心があらわれた。
先生ご自身の実践,ボアール,マダン劇,フレイレ--民衆文化運動としての演劇と教育の営みに通底する思想は, 私がこれまで親しんできたH. ガーフィンケルの「エスノメソドロジー・会話分析研究」の発想に重なり合うように思えた。その思想のさししめすものはおそらく,エスノ的な力強い実践のメ ソドロジーとしてよむことも出来るだろう。
コミュニケーションの絶えざる〈いま・ここ〉に照準することの大切さ。なぜなら,漫然と生きているうちに私たちは,文化というものが,すでにそこにあるの ではなく不断に創り出されるということに気づかなくなってしまったから。知らずしらずのうちに支配的な文化や社会の牢獄に閉じ込められていることに気づか なくなってしまっているから。
こんにち,決して少なくない教育研究者が,現場と研究者が共生的な実践知の交流をめざす「教育のエスノグラフィー研究」を志向しつつあるとすれ ば,それは従来の教育研究が文化をうみだす力を失いつつあると感じるからだと思う。つまり,単に現場に寄生する,ないしは現場から一方的に搾取するかつて の教育研究から,教育文化を共に創造する教育研究実践への転換。啓蒙を視野に入れつつ草の根から発信する力。
いま私は,担当する大学1年生の基礎ゼミで,学生が生きる日常性の檻を見つめるフォーラムシアター“的”実践 (?) を目指しもがいている。そんな私は,里見先生のお話に一筋の光を見た思いで静かに興奮しております。ありがとうございました。
- 里見実・久保覚 (1981)「民衆文化運動の経験と展望』への問題提起(上)『新日本文学』411.