大学における演劇教育の現状と課題について -わたしの演技教育- (藤崎周平)

I. 日大のシステム-入学から卒業まで-

 日大芸術学部の演劇学科には、劇作・演出・演技・装置・照明・日舞・洋舞・理評という8つのコースがあって、入学試験の段階からコースを選択して二次試験(実技試験)を受験し、そのコースにしたがって専門授業を1年から4年まで受けることになります。
 演技コースでは、現在、30人強の1年生がいます。そして、卒業時点で俳優としての道を選択するのは、年によっても異なりますが、約半数の20名弱位で す。数字的には演技を志す人間は学年ごとに減っていくわけです。演技に適性がないと自ら判断したり、他の分野に興味を持ったりした学生は、演技の専攻を途 中で放棄することもできます。例えば、ダンスに興味を持つ学生もいれば、演劇教育の方に興味を持つ学生もいる。また、クラブ活動に情熱をそそぐ者もいる。 演劇の活動の場をもっぱら外に求める者もいる。ですから、専門の実技者を育成していくことも、もちろん1つの目標ですが、行き先の選択はかなり自由にでき るようになっている。それぞれが演劇の演技ということを出発点にして、演劇を題材にしながら、自分の適性を探していけるようなカリキュラムになっているわ けです。

II. 今どきの学生たち-introductionとして-

1.意識改革から

ぼくが担当している1年生の状況をお話ししたいと思います。
 まず、どういう学生が入ってくるかというと、これはよく言われているように、コミュニケーションの基礎から伝えなくてはいけないというところがある。演技以前の問題というのがとても大きい。例えば、普通に対人関係が持てない学生がかなりいるのです。
 学生たちは、今年も成人式で物議をかもしましたが、世のルールにあまりにも無自覚です。例えば、授業でシーンの稽古をしていて、教室全体がほどよい緊張 につつまれて、「いいぞ」と思った時に携帯電話がなったりすることがちょくちょくあります。演技といっても、まず、このレベルから始まるわけです。こうい う奴らですから、実習の本番中にも鳴らしたりするわけです。学ぶ態度がどうこういうのではなく、場の質を考えて欲しい。
 皆、漠然とここに入れば、ベルトコンベアーに乗って俳優になれると思っている。彼らが、ある高校に入ると、この大学に入れるといったような意味におい て。そして、漠然とテレビに出られたり、劇団に入れたりすんだというふうに考えている。じゃあ、知っている劇団をあげてごらんというと、これは当然なので すが、キャラメルとかピスタチオということになる。苦労して入った大学は、その資格を保証してくれる場なんだと。今まで以上の苦労が必要だと彼らが感じた 時、そこから彼らの第二の(?)人生が始まるわけです。4月の段階でそこに立っていてくれればいいのですが、その地点に皆がそろうまでにはかなりの時間が かかってしまいます。「演技」というものを考えていくための、意識を持てるようにするまでで、1年(実質的には約7ケ月/23回程度の授業)はかかってし まうというのが現実です。ただ、この出発点は、特定の人だけに与えられているのではなくしたいと思っています。まず、あらゆる者に可能性があるんだという こと。

2.問題はどこにあるのか

 桐朋の岡安先生が前回の12月14日の分科会でおっしゃっていたことのなのですが

 (1) 少子化が大学の経営にかなり影響を及ぼしている。
 (2) 体力がなくなっている。
 (3) 大学の学則と演劇の専門授業のカリキュラムとの問題。
 (4) 大学教員がオーバワーワークであること。
 (5) さらには、2年間で即戦力をつくらねばならない。

というような問題をあげていらっしゃった。これは季刊「演劇人」第2号特集「劇場芸術教育」の座談会「俳優養成の現状と可能性」においても語られていま すが、4年制と短大という部分を除けば、この大学でも同じような状況と問題点があるわけです。おそらく、近い将来は経営的なことも考えなければならないと 思う。まあ、それは外側の問題なのですが、実は、われわれが考えなくてはならないもっと大きな問題は、こちら側の問題、つまり、大学における演劇教育その ものにあるようにも思います。これは桐朋だけではなくて、日大にもいえることなのですが、70年代以降、演劇、中でも実技を扱う大学は自己点検を怠ってき たのではないか。常に演劇は外にありきというような発想だった。ここ30年をみても、既成の演劇を動かすようなパワーは専門大学からは生まれていないよう に思います。(関西では、特に大阪芸大が中心になっていることを、菊川先生から指摘を受けた。)学生というのは、常に可能性があると思っていますから、こ の芽をつんでしまってきたのではないかと。
 とにかく、一方的にお客さんのせいにはできないのではないかと思うのです。
 さきほど、新入生たちはコミュニケーションが希薄だという話しをしましたが、だからと言って、彼らにコミュニケーションがないかと言えば、そこには、何 らかの方法があるわけです。ぼくは人間と人間が向かい合って、そこで行われる交流のようなものに興味があるのですが、彼らはまったく違ったところに、ある 演劇的な興味を持っているような気がします。こういう感覚をネグレクトしてはならないと思うのですが、どうしても、これが演劇のコミュニケーションの王道 だ!というような、一方的な示し方をしてしまう。むしろ、ここを疑っていくことに演劇の価値があるのではないかとも思います。「普通に」対人関係が保てな いとしても、そこには絶対何らかの演劇と呼べるものは成立するのですから。自分としては、こういうところからも、演劇や演技を考えていきたいなと思っています。

III. わたしの授業

 これから、ぼくが1年生の演技コースの「演技演習」という授業のなかでどのようなことをやっているかということを、簡単にお話したいと思います。
 専門俳優になるための技術的なことはほとんどやりません。正直、ぼくの授業をやっても演技はうまくならない。というような噂も耳にすることもあります が、まず、技術アリキではなく、技術というのはなぜ必要なのかを考えるところからスタートします。それは、彼らが一般的に「演技」と考えているイメージを とりはらって、「発信する」ということと、「受け入れる」ということを考えるところから始まります。彼らは試合(台詞のあるシーン)を望みますが、まずは キャッチボールからということ。とにかくこわいのは、よく言われているような「一般的な演技」に対する意識と経験なのです。

※実技の占める時間
平成12年度入学生の場合、週に135 分に実習授業が5つあります。(約11時間)その他、演劇の座学の必修授業が90分×2あって、その他の一般教養、外国語、体育などの時間は約14時間に なります。すなわち演劇の専門実技授業が占める割合は、半分弱というところでしょうか。

1.『俳優修業』のこと

まず話すのが、スタニスラフスキーの『俳優修業』は、1年が終わるまで読むなという ことです。実は、「すみません、もう読んでしまいました。」というのが、今年、数人いました。心のなかでは「偉い!」と思うのですが、「まだだめだ。」と 言いました。その中の1人は、さらに、「ぼくは『メソード演技』も読んでいます」というのです。そういう学生に限って、コミュニケーションが苦手で、それ をカバーするために理論武装している場合が多い。なぜだめかと言えば、それは意味や解釈が先走ってしまう傾向があるからです。確かに、演技論は大切です が、スタニスラフスキーを神格化し、先に『俳優修業』ありきと考えるのはどんなものでしょうか。演技を考えるのではなくて、そこに書かれていることを探し てしまう。「演技」はスタニスラフスキーの探究から始まるのではありません。自分を見つめるところから始まるのです。その意味で、ある程度、演技者として の身体感覚がわかってから読んだ方がいい。ああ、なるほどこういうことなのかと。

2.コミュニケーション

 前期の中心となるのが「コミュニケーション」です。
 コミュニケーションといっても、ぼくの場合は言葉を使わずに、足や手、そして、指だけでコミュニケーションをしたり、身体全体でコミュニケーションを とったりする。例えば、男女2人1組にして「マクベス夫人がマクベスに王殺しをそそのかす」というテーマを与える。また、背中合わせになってフルーツ語 (目茶苦茶言葉の一種)で、同じような設定を与えて会話してもらったりする。最初のうちというのは、どうしても翻訳してしまうわけです。そして、コミュニ ケーションがつらくなってくると、物語を作って、それに乗せることで、何とか場を持たせようとするのですが、何回かやっていくと、無意識の部分で交流がで きるようになっていく。これが第一段階だと考えています。彼らはこのことによって人との交流に意識的になっていきます。発信するだけでなく、「受信する」 ことの重要性に気づいてくれる。
 これらのコミュニケーションというのは1分から5分程度、レベルに合わせて変えていくのですが、これを1回の授業の中で、相手を変えて数回繰り返しま す。その後、同じ位の時間を使って、相手と今の対戦についてのミーティングをさせます。そこでは相手あって自分が立てたんだということを大前提として、や りやすかった点、やりにくかった点、そしてなぜ、そうなったのかということについて話し合うのです。これによって自己中心的な考え方は少しずつ変わってき ます。もちろん、基本的な性格まではかわりませんけど。

3.パイプ椅子のレッスン

 次の段階では、パイプ椅子を使ったレッスンをやります。ぼくの教室には人数分の小道具として使えるものがパイプ椅子しかないのでパイプ椅子を使うわけで すが、雨の降った日などは、各自の傘でやってもいいかも知れません。椅子を様々なものに見立てていくのです。ボードビリアンの芸ですね。このことで大事な のは、もちろん発想力なのですが、自分だけが満足してしまうのではなく、観客の創造力に委ねて作品として完成してもらうということです。
 次の段階では、先程のコミュニケーションとパイプ椅子の見立てをつなげて、ある設定を与えて、椅子でコミュニケーションをとるという課題をやります。平 成11年度は、年間を通して『かもめ』の1幕の冒頭シーンのメドヴェージェンコとマーシャのシーンの台詞を入れさせておいて、それを色々な課題に用いたの ですが、このシーンを椅子を使ってやるのです。学生は黒衣の椅子遣いとなって、椅子が役ということでシーンをやらせるんです。ここでチェックするのは、演 技とは役になりきることだと信じて疑っていない学生と、椅子を使えないで自分が動いてしまうような人たちです。もちろん自分が存在することも大事だけれ ど、相手との関係をきっちりとって、その関係を観客に伝えていかねばならないということが大切です。
 ぼくは日本演劇史の講座も持っています。12月に国立劇場で文楽の鑑賞教室を全員に見せました。その直前に、演技の授業の方で、ある新劇団のチェーホフ 劇を見せたのですが、比べ物にならないくらいに、文楽の方がいい。これぞプロだと驚いていました。別に文楽の研修生にさせようと思っているわけではないの ですが、広く、演技ということを考えて欲しいと思っています。文楽の鑑賞は、実際、彼らが「役と私」の関係と、「技術」を考えていくうえで、参考になった ようです。また、自分の身体の構造(骨格・筋肉)を、例えば、文楽の人形遣いが熟知しているように知らなければならないというようなレポートもありまし た。もちろん日大でもありませんが、演技訓練のうえにおいて、古典の技法ということだけではなく、人形劇の訓練があっていいのではないかと思います。

4.メソード演技

後期になると、メソード演技が中心になります。「リラクゼーション」「エクササイズ」そして、「アニマルエクササイズ」をやるのです。回数でいえば、 たったの12回程度ですから、もちろん、メソード演技をマスターするなんてことはとてもできません。ここでやるのは、むしろ、メソードの課題を使って、前 期同様に、「演技とは何か」ということを考えていくことです。
そしてもう一つは、自分の身体の感覚に対する意識を高めさせるということ。例えば、「ice man 」というexerciseがあるのですが、これは、自ら氷象となって、そこに十円玉の太陽を当てるというものです。実は毎年ではないのですが、これと同じ 課題を入試で出しているのです。課題にあたっては次のようなことを言います。

  1. 氷が溶けていくストーリーをあらかじめ作っておいてから演じるのではないということ。
  2. 自分が溶けていく姿のイメージを浮かべて、それを表現していくものでもない。(もちろん完璧にこのイメージからは逃れることはできないだろう。ただ、それを前提としないこと。)
  3. 氷の気持ち・感情(そんなものはないのだが)を表現していくものでもない。

そして、何回かそれをやってから、入試の時と今の自分との距離を意識させます。あの時と今の自分とはどのように違うのかということです。次に、今度は やってはいけないことをやらせます。ぼくを怒らせろと、絶対に誉められてはいけないと。これを言うと最初はかなり面食らいます。このやってはいけないこと と、自分たちが通常している演技との距離を、前期やったようにミーティングして語らせていきます。

《レポート》

(1)「自分の中から何かがわきでてくるのを待つということは、やっぱり難しいしつらいものだなと思いました。何をするにも、まず体が「何かになろう」と してしまうのが癖のようになっていて、自分の身体や感覚で感じたり反応したり変化したりすることを信じきれていないような感じがします。(略)1人で放り 出されてみたらまた「何かしなきゃいけないんじゃないか」というような雑念が復活してきて、待つ・耐える・信じるのが恐くて集中が切れそうになりまし た。」
(2)「入試のときは、ただ、氷が太陽に照らされて溶けていく様子を表現しようと思って、自分の内で「暑い暑い暑い」と、気持ちを作ろうとしていたように思います。一番太陽に近い部分から溶けて…というような外面的なところに重点を置いていたと思います。」
(3)「最初に演じた時は入試の時で何か異常なまでに意気ごみ、「魅せなくては」「他の人とは違う事をしなければ」という思いばかりが先行し、題の『氷が太陽にあたっている』事自体を無視して氷像の形になっていました。」

4.アニマルエクササイズ

後期の中心はアニマルエクササイズです。実習室は動物園のごとくなります。これは身体感覚をより研ぎ澄ましていくということです。そして、どのようにし て、動物を仕掛けとして獲得した身体感覚を役を演じる際に応用していくか、ということを、先にも述べた『かもめ』を用いて行っていきます。この発表を1つ のまとめとして1年の授業を終えます。

IV. 諸問題について

 どれだけ学生の集中力が持続できるか。そして、こちらの集中力も持続できるか。これに尽きるように思います。そして、演技に対する好奇心を持ち続けるこ とができるか。ぼくは1年生の最初の授業でいつも言うことがあるのですが、授業というのは最初と最後になってしまう。どうやって継続させていくかをお互い に考えていこうと。彼らはものすごい energy を持っています。これをなんとか効果的に使っていきたいとつくづく思います。よし、この食いつきをいつま で持続させられるかが勝負だと。週に数回の授業で、実際に授業を行えるのが通年で24回程度とすると、その間に長期間の休暇が入ることもあって集中力の持 続は不可能だし、芝居ではなく、訓練においてある程度継続した意識を学生に持たせることはかなり難しいわけで、現状では週一の授業よりも、ワークショップ 的な集中授業を行った方が効果があがるのではと考えることもあります。
 これもよく言われることなのですが、それぞれの訓練、そしてその方法論と、役作りとが有機的に結びついていないということがあるように思うのです。日大 では3年前と、昨年の夏にRADAからピーター・オイストンという演出家を呼んで、3週間のワークショップを行ったのですが、彼の方法論というのはスタニ スラフスキーのそれを基本にしているのですが、とにかく、役作りと具体的に結びついているんですね。だから非常に説得力がある。おそらく、スタニスラフス キーも含めて、わが国に伝わってきた方法論は、この具体性に欠けていたように思うのです。

(2000年1月30日、日本演劇学会「演劇と教育」研究会シンポジウム「高等教育における演劇」にて報告。)